十九世紀の罠-2

(前回の「十九世紀の罠」の続き)

西洋建築様式史」(共著、1995年)、第11章「19世紀の建築」より。*1

 18世紀後半に開始された新古典主義は、(中略)ローマの偉大さを強調しようとする傾向、(中略)ギリシアの「高貴な単純」こそ至上とする傾向など、さまざまな内容を含んでいた。考古学上の新発見と調査研究は、古代の建築にさまざまなスタイルがあることを教え、多数の出版物が建築家に古代の知識を提供した。新古典主義は、バロックロココに代わる新しい美学をもつ国際的な運動となっていった。
 他方、自国の伝統のなかに建築のモデルを見出そうとするロマン(中世)主義が台頭する。これはゴシック様式の復興としてイギリスが先陣を切り、19世紀に盛期を迎える。同時に、18世紀の新古典主義の中にはエジプト、中国、インドなどの非西洋の建築様式に手を染める者もいた。
 19世紀は18世紀に現れていた様式の多元化が一気に進んでいく時代であり、建築家は今や幾通りもの様式を手中にすることになった。しかし、最も有力な様式と見なされたのは、依然として新古典主義であり、19世紀前期に全盛期を迎えた。19世紀の中頃から新古典主義の力は衰え、ネオ・ルネサンスとネオ・バロック様式がそれに代わり、世紀の後半は諸様式のリヴァイヴァル(復興)の時代となった。復興様式はさらにそれぞれの国の伝統と混ざり合い、ひとつの建物に複数の様式が折衷されることもあったが、建築の格付けのための重要な表現媒体として生き続けた。
 ところで、19世紀初頭、文学者で政治家でもあったシャトーブリアン(1768-1848)は、『キリスト教精髄』(1802)を著し、そのなかでゴシック様式は国民的様式であり、キリスト教にはゴシック様式が古典様式よりも相応しいと述べた。これは、様式がある特定の建築に結び付き得ることを示唆するものである。

大雑把にまとめると、19世紀前半は「新古典主義」で、後半は「諸様式のリヴァイヴァル(復興)の時代」(今風に言うと、「出版物」によって、「様式」のデータベース化が完了した時代、かな)*2。そして、その後の「モダニズム」では、過去の全ての「様式」(データベース)が否定の対象となる。

モダニズム」に続く(たぶんw)。

(追記)

意外なつながりシリーズPart 2*3

渡辺公三著「闘うレヴィ=ストロース」(2009年)*4第一章「学生活動家レヴィ=ストロース」より。*5

(前略)おそらくこの「プロレタリア文学」についての評論が、レヴィ=ストロースの署名で論争的な文章が誌上に登場した最初であろう。資本主義社会のただなかでは「プロレタリア文学」は成立しえず、「革命的文学」のみが成立しうる。「いまだに生まれていない文明の美的表現であると仮説されたプロレタリア芸術をどのように定義できるというのか」と反問したうえで、「社会革命は、芸術の革命と同様、革命そのものである。/未来の革命者たちは、その〔革命の〕不十分さによってのみ、それを「プロレタリア」革命と判断するであろう」という挑発的な言葉で結ばれたこの評論は(中略)批判を呼び、(中略)フランスにおけるプロレタリア芸術をめぐる論争の発火点になったとされる。

 一九二八年一一月号では、「警告!」と題した文章で、開設されたばかりの社会党本部の建物の保守的な趣味を批判し、革命的なデザインをしめすことで革命的意識をもった支持層を獲得すべきだという主張を展開している。文頭には「ブルジョワ社会の基礎にはブルジョワ文明がある」というド・マンの『マルクス主義を超えて』の一節がおかれている。評論は、その年の夏にスイスで開催された近代建築国際会議*6で、当時は新進の建築家ル・コルビュジエ(一八八七―一九六五)らが、建築における前衛たることを表明した決議文の引用*7とセットで組まれている。

レヴィ=ストロースル・コルビュジエの意外なつながり、の巻でした。まっ、意外というか、(当時は)二人ともパリに居たので、当然かも知れないな。

同書(P.45)より。

(前略)(レヴィ=ストロースは)当時の政治的な態度をめぐって、『遠近の回想』では次のように総括している。

そこ(中略)に寄稿した文章で私が言いたかったのは、あらゆるかたちの前衛はそれぞれの分野で革命的であるべきだという命題を擁護しよう、ということでした。
たとえば私たちが政治において前衛であるように、というわけです。そのことによって、当時左翼の活動家に多かったのですが、キュビスムシュルレアリスムなどはブルジョワ的退廃の表現であると考える人たちと、私は一線を画したのです。

それぞれの分野の独自性を認めつつ(これはある種の文化相対主義ともいえよう)、それぞれの分野で前衛であることを求める(これはある種、前衛であることへの絶対的要請である)というレヴィ=ストロースの思考のあり方が、ここでは巧みに要約されている。

うーん。そういえば、最近、「前衛」という言葉をあまり見なくなった気がする。気のせいかな。海外の建築サイトをネットサーフィンしていると、船酔いに似た眩暈に襲われる(w)けど、今の建築では、デンマークの「BIG」(Bjarke Ingels Group)が割と「前衛」だろうか。「BIG」の建築は、CAD的な自由自在な操作空間に、リアルと交差しているような諸形式を、スクリプト言語的に(リテラルに)さくさくと入力して建築形態を確定している、というだけに見えるような荒っぽさが、とても魅力的(動画動画動画←他にもたくさんある)です。「BIG」の建築観は、ウィキペディアここ参照(「BIG」は、「前衛」(avant-garde)ではなく「第三の道」(pragmatic utopian architecture)を掲げている)。

以上。

(追記2)

前に「メモ-3」の記事で、「(前略)コミュニティをつくるとかの議論は、全く本質的ではない」と書いたけど、広井良典著「コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来」(2009年)を買った。でも、読まないかも知れない(おいw)。でも、コミュニティの未来と宗教施設(神社やお寺や教会)の章は、面白いかも知れないな。うーん、初詣(w)

では、良い年末をお過ごし下さいませ。m(_ _)m

*1:日食」の記事参照(同書、第10章「18世紀の建築」)。「モダン・ライフ」、旧ブログの「表記-4」、「表記-5」、「表記-6」も参照(19世紀のパリ、ロンドン)

*2:十九世紀の罠」の記事参照(19世紀)

*3:Part 1は、「レッセフェールの教訓」の記事の追記

*4:闘うレヴィ=ストロース」、「「計画」と「規制」」の記事参照(「闘うレヴィ=ストロース」)

*5:悲しき熱帯II」、「ボロロ族の集落」、「ボロロ族の集落-2」、「ボロロ族の装飾」、「環境のイメージ」、「機能から構造へ-2」、「メモ」、「メモ-2」の記事参照(レヴィ=ストロース

*6:機能から構造へ」、「ユルバニスム」、「メモ-3」注釈2の記事参照(※CIAM近代建築国際会議

*7:この「決議文」はおそらく1928年「ラ・サラ宣言」。「第1回の創設会議には計8ヵ国から25名の建築家が参加し、(中略)建築や都市に対する合理主義的・機能主義的な視点やエコール・デ・ボザール(国立美術学校)流のアカデミズムに対する批判的な姿勢を打ち出した『ラ・サラ宣言』を採択した(中略)。CIAMの活動を通じて、絶えず議論の中心に位置していたのは、20世紀における住環境と、それらを含めて都市をどのように形成していくかという問題であった。(中略)ラ・サラの第1回総会では(中略)『これら獲得したものは、近代建築が存在するという事実から生じている。この建築は、すべてを転倒させ、すべての領域で新しい均衡状態を作り出す(中略)』ことを説いたのである。(中略)その成果は会議のたびごとにまとめられ、出版物として刊行されたので、会議に参加した者以外にも広く知られるようになっていった。」(暮沢剛巳著「ル・コルビュジエ 近代建築を広報した男」)