社会的な身体-2

(「社会的な身体」の続き)

荻上チキ著「社会的な身体〜振る舞い・運動・お笑い・ゲーム」(2009年)より。

ノート「『情報思想』の更新のために」(の続き)

(前略)こうした誤解は、社会モデルの段階的な変化を単純化して捉えてしまったり、あるいはそのモデルが適切に再提示されていないことによるところが大きい。それは、しばしば次のようなモデルで説明されるものだ。

 まず、様々な二元論が信じられ、大きな物語を共有していた時期があったと語られる。そこでは規律された内面、道徳を共有する主体、あるべき家族や国家といった理念、イデオロギーや歴史の必然性、ユートピア、公共性といった象徴的な(想像としての)準拠枠組みを掲げることで、各個人や各共同体が、一つの全体性*1として統合される「かのように」振る舞うことが可能とされていた。

 そうした社会モデルは事後的に「ツリー型」*2ハイアラーキー型」として説明され、同時にそうした秩序こそが個人を抑圧するものだと批判されることで、アナーキーな秩序を想像する言説が様々に試されていった。

 統合が失われた各個人、各コミュニティは、それぞれの「小さな物語」を信じることはできるが、その物語こそが全体性を主張できるとする根拠は失われている。そうした状況は、乱立し流動化する「島宇宙」のようであり、個人はそうした、フラット化された数々の「小さな物語」(=データベース)と戯(たわむ)れることしかできない。物語や規律の力が弱まり、各人がその身体的な快楽や個別の合理性を追求する状況で、秩序を保つために導入されるのが、「環境管理型」の方法論であったり、あるいは近代の秩序を保つために「再帰的」に導入される事後選択の連続であったりするのだ、と。

 こうしたモデルはあくまで、漠然と共有されていたと目されるリアリティの図式化であって(あるいは観察側の欲望の言語化であって)、社会システムそのものの観察言語としては部分的にしか通用しないし、史実に背くところも少なくない。また、こうしたモデルは、ある時期まで「揺らぎのない市民社会」に向けて、「新しい社会」の可能性をぶつけるためのスローガンであり、またある時期以降は、そうした運動自体が成立しなくなった社会状態への口実、すなわち「知識人の欲望」に過ぎなくなった。「あるモデルに基づく観察が通用しなくなった」という言説と、「社会がそのように変化した」という説明の間には、大きな溝があることは、忘却されてはならない。

ゾクゾクしてきますねぇ。

そして、著者は上記の2つのモデルとは異なる「リアリティ」を提示する。それは、まっ、先月発売されたばかりの本を引用しまくるのもアレなので、是非買って読んでみてください。m(_ _)m

そして、

 私たちがニューメディアを取り扱う場合、陥りがちな誤謬(ごびゅう)が一つある。それは、あたかも世界に、人々とそのメディアだけが存在するかのような空間を想定し、心理、集団行動、社会モデルなどの変化を描いてしまうことだ。

(中略)例えば最近頻出するキーワードに「設計」というものがある。(中略)しかしこのような「語り口」については細心の注意が必要となる。懸念の一つは、自らがすでに「設計する側=包摂する側」に回っていることを問わず、時に隠蔽してしまうことだ。つまり何の資格があって、あなたは「設計側」で、「彼ら」は「包摂される側」なのか、という問いへの無自覚さである。

と述べて、イギリスの社会学者のジョック・ヤングの「排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異」という本から、とても興味深い長文を引用した後で、

(統合的な)社会を語る饒舌(じょうぜつ)さが、デタッチメントを覆い隠すための言い訳になるのは許されない。私たちの社会に自生してきた秩序の数々が、どのようなリソースの活用を可能にしているのか、いかにして参入を実現できるのかその条件に配慮しないままの言説は、排除を長期化させる共犯者にもなる。

(中略)メディアは、思想にとっての環境となり、人々の世界認識の構築に大きく関与する。よりはっきり言えば、メディアは思想を作るのに加担する。そうした環境の支配について、不断の問い返しを行う作業だけが、希望を語る行為を可能にするのだ。

と、締め括る。

(以上)

上記の「メディア」を「都市」と読み替えることができるだろうか。いや、そのどちらか一方だけが存在するかのような空間を想定することは極力、避けなければならないのだろう。

*1:別ブログの「雑記6」の記事参照(「全体性」について)

*2:「ツリー型」は、クリストファー・アレグザンダーの「都市はツリーではない」(日本語訳はここ)(1965年)が元ネタ。柄谷行人著「差異としての場所」でも言及されている。ただ、「ツリー」の着想そのものは、クリストファー・アレグザンダーの師匠のケヴィン・リンチの「都市のイメージ」第4章「都市の形態」(1960年)で、「地域全体が静的な体系 hierarchy」の都市形態として言及されている。少し引用すると、この都市形態は「抽象的にものごとを考えがちなわれわれの習慣に適しているとはいえ、大都会における種々のつながりの自由と複雑さを否定しまっている。この方式によるとすべての結びつきは、遠回しで概念的な方法でなされなければならない。(中略)これではまるで、やっかいな前後参照システムをひっきりなしに使用する図書館でみられるような、図書館的な調和になってしまう」。