無題

ドタバタしておりやす。。
えーと、別ブログを作りました。こっちのブログは「読書メモ」、新しいブログは「ニュースメモ」という使い分けを考えておりやす。まっ、いつものように、超適当(な使い分け)ですw。ここです(下記)。

「未来の門を血にさびた鍵で開けようとするな、マスターキーで開けよう」
http://d.hatena.ne.jp/baby_urbanism/

ちなみに、このブログのタイトルは、エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)の表紙裏のJ.R.ローウェルの詩から採っている(「メモ-4」注釈12の記事参照)。まっ、とは言っても、それほど深い意味はありません(おいおい)、雰囲気ですw。あと、「読書」のほうは快調で、最近、良い本に巡り合える機会が増えたように思える。。

以上(!)。

ハイブリッド世界の本質-2

(前回の「ハイブリッド世界の本質」の続き)

BIGSOLUTIONS」さんのチャンネルが9ヶ月ぶりに更新されていた。前に「メモ-5」の記事で書いた、デンマークの「BIG」(Bjarke Ingels Group)が設計した(上海万博の)「デンマーク館」の動画です。楽しそう。でも、見てるだけでも目が回る(w)。

えーと。あと、その「メモ-5」の記事で、「デンマーク館の写真がこのサイトに載っていた。CGかと思いました(w)」とか書いたのだけど、コンセプトCGはここです→動画。あと、CGに見えない写真(?)もありました、これ→写真。この写真、割と好き。ル・コルビュジエが設計した「サヴォア邸」(1931年)のように見えるし*1、構造家のオヴ・アラップが設計した「ペンギン・プール」(1934年)のようにも見える。更に、ウォータースライダーのように見えるし、首都高速中央環状線の「大橋ジャンクション」(2010年)のようにも見える(一応、その「メモ-5」の記事の最後に貼ったこの動画の1分5秒〜1分20秒と1分35秒〜1分50秒が「大橋ジャンクション」です。それぞれ「上り」と「下り」です)。ともあれ、この「デンマーク館」から、21世紀の今日のデンマークらしさ(デンマークの空気)が感じられるところが一番いいと思った。コンセプチュアル、かつ、ナチュラルな建築です。まっ、とは言っても、僕はデンマークへ行ったことないけどな(w)。

とりあえず、その上記のコンセプトCGの動画(の10秒〜50秒)を見て、この建築を「サムネイル型アイコン建築」と名付けた(勝手に)w。「サムネイル」とは、「画像や印刷物ページなどを表示する際に視認性を高めるために縮小させた見本のこと」で、「視認範囲の限られるカタログや画面表示上、もしくはデータ量の限られるネットワーク上の画像情報の伝達において用いられることが多い。」んです→ウィキペディア。また、前に「十九世紀の罠-2」の記事で貼ったこの動画*2(の6分50秒〜7分3秒)で、建築家のビャルケ・インゲルス(Bjarke Ingels)自身が語っているように、この建築は、デンマークという国(コペンハーゲンという都市)が、強力で単一のアイコン(「人魚姫」等)で表現されてしまうことに対しての批判的な役割を担っている。つまり、この建築も、前回の「ハイブリッド世界の本質」の記事で書いた、「消極的アイコン」なのである(もちろん、アドルフ・ロースが「シカゴ・トリビューン新聞社」の建築コンペの案で、最も保守的な単一のアイコンを用いたのとは異なり、この「デンマーク館」では複数(5個)のアイコンを分散的(クラウド的)に用いて、ループ状*3の建築形態で綴じている、という技法上の違いはある。この違いは大きい)。

いずれにせよ、「アイコン」はエクリチュールと同じで「」にも「」にも*4なるのであり、その「毒」の性質に対して過剰防衛することは「独善的な犯罪」*5以外の何物でもなく、そもそも、今問われているのは「社会」における建築のあり方(適合)と可能性であり、社会において「アイコン」は有用な手段にもなるのである*6。そして、この「アイコン」の有用さは、デスクトップやスマートフォン上の「アイコン」やフォトショップやユーチューブ上の「サムネイル」等を見れば、一目瞭然である*7。と言うわけで、21世紀の建築は「アイコン建築」です(キリッ)。以上。

では、6月〜7月についてのメモ。

(追記。まっ、「メモ」というか、僕のノート(落書き帳)に自己流の速記体や簡略記号で(w)メモってある内容(アーカイブ)をブログに書く(再編成する)、という作業です。正確には、この世のものとは思えない文字列を日本語に組み立てる(日本語に翻訳する)、という作業ですけど(ワラ)。旧ブログの「X」の記事参照。まっ、僕のブログで「接続詞」と「指示代名詞」が多用されているのも、おそらくそのせいです。それと、全体の流れを「占い本」の文体に乗せて書いている。僕は石井ゆかりの読者で、この人は占星術師なのに、占星術を全く信じていないんです。でも、占星術はしっかりと勉強できているので、占星術的に正しい占いはできるよ、といった感じの(距離感のとれた)文章をいつも書かれています。旧ブログの「Warped World」の記事参照(「手相占い」)w。*8

「ワンダー×ワンダー」(NHK)という番組の「水七変化!奇跡の絶景」(5月25日放送)の回をたまたま見た。映像がすごかった。とくに蔵王の「樹氷」と愛媛県肱川の「動く霧」がすごかった→予告動画(この動画のラストに海へ向かって流れる「動く霧」の映像があるのだけど、その霧の下には普通にがありますw)。どちらも、自然界の特殊な条件(地形、気温等)が偶然、揃うことで起きるという不思議な(希少な)現象です。「樹氷のできる条件」はここ参照(木に雪が積もっているのではなく、「過冷却水滴」が凍る)。「動く霧」はここここ参照(「放射冷却」によって陸と海の気温がかくかくしかじか←忘れた)。

前に「ギリシャ型とローマ型」の記事で、「日食」について、「日食が起きると、気温が下がる、雲が発生する、星が見える、周りの(太陽の光が当たるところの)空が360°オレンジ色に見える、等々の多様な現象が、共時的に連動して起きる」(→動画)と書いたのだけど、今回の「樹氷」と「動く霧」は、「日食」と逆の順序になっている(つまり、複数の現象が先に共時的に起きて、それらが連動して、ある一つの現象が起きている)と言えるのかも知れない、うーん。まっ、ともあれ、とてもいい番組でした。「」の「状態変化」(固体、液体、気体)はほんとすごい(!)と改めて知った。あと、自然界の醍醐味は、「連動」する性質にあると思った。前に別ブログの「イオンレイクタウン-3」の記事の追記で、「「イオンレイクタウン」と「都心マンション」は連動している」とか書いたのだけど、「都市論」の醍醐味もこれである。*9

では、次。

視点・論点」(NHK教育)の「日本の文化政策を憂う」(5月26日放送、三潴末雄)の回をたまたま見た。番組では、民主党が「事業仕分け」で文化予算を削減したことや、「国立メディア芸術総合センター」の建設計画が「国立漫画喫茶」と揶揄されて、中止になったことを厳しく批判していた。そして、「韓国の文化予算は日本の5倍」であると述べて、最後に「今こそ日本には、戦略的な文化政策の構築が必要」と結んだ。*10

韓国の文化政策については、前に「メモ-5」の記事の注釈2で書いた(いや、書いてない)、「新建築2010年4月号」の巻頭の「建築基本法から都市建築基本法へ」(仙田満)にも書かれている。国の文化政策については、前に後藤和子著「文化と都市の公共政策――創造的産業と新しい都市政策の構想」(2005年)*11を読んだ範囲でしか僕は知らないのだけど、勝手なことを言えば、もっと根本的な改革をする必要がある(例えば、前々回の「メモ-5」の記事で書いた「土地の税制改革」)のではないかと思う。更に、これは「文化」とは何か、または、「文化」に国が介入する必要性(正義)がいつどこにあるのか、といった(政治哲学的な)問題でもあると思う。

また、「公共性」と「経済性」の関係は、前に別ブログの「雑記5」の記事で、「情報空間と都市空間の関係と、「公共性」と「経済性」の関係は、今ぼちぼち考えているところ」と書いたように、これまで書いてきた「都市空間」(アトム空間)と「情報空間」(ビット空間)の関係と同等の、僕の関心事項(図式)の一つである。そして、前に「闘うレヴィ=ストロース」の記事の追記で書いたように、「公共性」と「経済性」は全くの別物であると考える(もちろん、僕は「公共性」を「経済性」から自律させるべきであると考えている)と割と整理がし易いのだけど、これに伴う問題点もなくはない。とくに、前に「明日の田園都市-2」の記事で大文字(黄色)で書いた、「生産の増大」か「より正しくより平等な分配」かの「二つの陣営」の対立図式に陥る(と同時に、そのどちらの「陣営」の立場に立つこともできない、分裂する)という可能性である。更に、この「二つの陣営」が実際に(とくに経済学的に)どう結び付いているのか、または、どのような結び付きが理念的に正しい(正義に適っている)のかは、僕に分かるはずもない(泣)。*12

でも、同じくその「明日の田園都市-2」の記事で書いたように、都市計画家のエベネザー・ハワードは「田園都市」(「Garden-City」)という都市計画によって、この「二つの陣営」を「実用性という糸で綴じた」のである。これは一体、どういうことだろうか。

…と、書いたものの、この先の話はすごーく長くなるので、また今度にする(おいおいw)。興味がある方は、エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(のとくに第10章)を読んでみてください、翻訳はいまいちだけど*13。まっ、大ざっぱに(アウトラインだけ)言うと、第一に、前回の「ハイブリッド世界の本質」の括弧内でも書いたのだけど、いろいろと「工夫」(発明)がされている、ということです。つまり、その具体的な「工夫」の一つひとつが重要なのである、ということです。第二に、前に旧ブログの「Integral Project-3」の記事で(レム・コールハース「松島新都市」の都市コンペ案(1998年)を例に)書いたのだけど、「マルチエンディング」になっている(1つの「都市計画」の中に複数のエンディングが用意されている)、ということです。分かり易く言うと、上記の「二つの陣営」のどっちに転んでも構わない、ということです。

(追記。一応、強調しておくと、その「どっちに転んでも構わない」状況が、何によって実現されるのかと言うと、それは「都市計画」によってである、ということです。エベネザー・ハワードは、今日では「都市計画家」と呼ばれるけど、「田園都市」以前のハワードは、イギリスの「議会の記録係」だった。ハワードは実直に「良い社会をつくるにはどうすればいいのか」を考えた結果、「土地の税制」を経由して*14、「都市計画」という手段にたどり着いたんです*15。これは「ポストモダン社会」を生きる僕らには理解しにくいことかも知れない(ポストモダン社会では、例えば、「建築に何が可能か」とか「社会学に立つ瀬はあるのか」とか等、主題が倒錯する)けど、ハワードの著書を読むことで、再始動できるのではないかと僕は考える。)

そして第三に、というか(この長いー話の)総括になるけど、上記のように、複数の「未来」が想定されている、または、未来が「不確実」であるということは、とても現代的(21世紀的)であり、この「不確実」性を形式化して(モデル化して)扱う「手つき」こそが、今日の「都市計画」で求められているのである(今日の環境に適合する、本質的である)、ということです。この「手つき」は、未来が一つで確定的だった「近代」(ル・コルビュジエの「都市計画」*16等)とは対照的である、と言える。更に、この「手つき」は、レム・コールハース著「コールハースは語る」(2008年)*17で解説されている幾つかの具体例や、政治哲学者のジョン・ロールズの「無知のヴェール」や、最先端の数学の「確率論」(→ウィキペディア*18等と、(少なくとも僕の中では)密接に関係しているのです。以上。

その他の「メモ」は、そのうち書く。というか、メモってあっても、メモ通りにブログに書いた試しがない(ワラ)。

では、早めに今日の本題。

クリス・アンダーソン著「フリー〜〈無料〉からお金を生みだす新戦略」(2009年)、第13章「(ときには)ムダもいい」(P.255-258)より。

(前略)自然界にこれほどムダが多い理由は、数学者が言う「ありうべき空間の完全な精査」をおこなうためには、やみくもに撃ちまくる戦略が最良の方法であるからだ。砂漠に少し離れてふたつのオアシスがあるところを想像してほしい。片方のオアシスのふちに生えた木には、子孫を残すためにふたつの戦略のどちらかをとることができる。自分の根の近くに種子を落とせば、その種子が水を得られる可能性は非常に高い。これは安全だが、すぐに過密状態を招くことになる。あるいは、種子を空中に投げあげ、遠くまで風に運ばせることもできる。これは、ほとんどすべての種子が死ぬことを意味するが、もうひとつのオアシスを見つける唯一の方法だ。そこを新しい生息地として、おそらくはより豊かに繁栄することができる。数学者が言うところの「局所的最大値」から「大域的最大値」へいたる道とは、その途上で多くの「最小」を探索して、消していくことなのだ。ムダは多いが、最終的にはうまくいく可能性がある。*19

(中略)おそらく、ムダを受け入れることのすばらしさをもっともよく体現しているのはユーチューブだろう。(中略)ユーチューブにあるこれらの雑多な動画はすべて、肥沃な地面を探して飛ぶタンポポの種子そのものだ。

うーん。前回の「ハイブリッド世界の本質」の記事で、「僕はそれに2つ付け加える」と書いたのだけど、どちらも、次の第14章「フリー・ワールド」だった。以上(おいおいw)。次回書く。

「ハイブリッド世界の本質-3」に続く。

(まっ、エベネザー・ハワードの「田園都市」構想は、上記の「大域的最大値」ではない(ムダを受け入れたわけではない)けれど、少なくとも、上記の「局所的最大値」(過密都市・ロンドンの根の近くに都市を建設すること)とは異なる戦略(「田園都市」網によるイギリスの国土の再編)であった、と言える。*20

(追記)

さて、前に別ブログの「モーション・タイポグラフィ」の記事で書いた、「モーション・タイポグラフィ」の動画(ユーチューブ!)を少しまとめてみた。この「モーション・タイポグラフィ」とは大体、こういう(下に貼った)動画を指します。説明略(w)。

では、ベーシック編。

http://www.youtube.com/watch?v=soEBaEMB_MU&fmt=18
http://www.youtube.com/watch?v=wOD04JN6TcI&fmt=18
http://www.youtube.com/watch?v=9hpW90qfV5w&fmt=22

前に別ブログの「別世界性」の記事で書いた、「「垂直」と「水平」がくるくるっと転回する感覚」、「リートフェルトを超える空間(形式)」とは大体、こういう動画のことです。シンプルで結構、好きです。または、ネオン的。*21

アニメ編。

http://www.youtube.com/watch?v=nSxr-HzSDLE&fmt=18
http://www.youtube.com/watch?v=dJxTelO1N94&fmt=22

まっ、僕はアニメを全く見ない(というか、テレビを付けっ放しにすることはあるけど、基本的に5分以上の動画はほとんど見ない)ので、よく分かりません(ワラw)。旧ブログの「Kinkyo-1」の記事参照(「萌え」について)。とりあえず、タイポグラフィー(活字)とキャラクター(アニメ)は相性が良い、と言える(というか、要するに、「マンガ」や「ケータイ」(絵文字)である)。旧ブログの「Minimal」の記事参照。

実写編。

http://www.youtube.com/watch?v=lLYD_-A_X5E
http://www.youtube.com/watch?v=X_n1FHX3mBw&fmt=18
http://www.youtube.com/watch?v=vS6wzjpCvec&fmt=18

3番目(一番下)の動画(PV)は、ほんとカッコイイ(!)です。これ名曲。最後のオチも面白い(ループになっている)。ちなみに、ロケ地は幕張副都心(のここ*22槇文彦設計)。あと、実写では、「一発撮り」(カメラの長回し)が「価値」を持つのかも知れない。

エロい編。

http://www.youtube.com/watch?v=uHF3X8tQYPU&fmt=18
http://www.youtube.com/watch?v=CxfQ37bqtMo

これは貼らなければ良かった、というか、貼る必要が全くなかった(泣)。まっ、いいか(w)。ただの僕の個人的趣味です(別に見なくていいです)w。

では最後に、僕の一番の「お気に入り」編。

http://www.youtube.com/watch?v=cTBPSr7if1I&fmt=22*23

まっ、これはくだらない「妄想」なのだけど、ここまでリアルに作り込まれていると、感動的ですらあります。くるくるっと転回するカメラワークも面白い。この動画(PV)を深読みするならば、2008年の「リーマン・ショック」後の世界(世界観)、または、「都市空間」(アトム空間)と「情報空間」(ビット空間)の戦闘か。更に、歌詞にある「Are you ready for it?」は、どういう意味なのか。ちなみに、「情報空間」が勝利してしまうと、こうなります→動画。これ最悪、泣。以上(!)。

(追記2)

ついでに、上記の本文中に「隠れ動画」を足してみた。やや足しすぎたかも知れない。まっ、「」、「」、「アトム空間」、「ビット空間」の4つです。別に深い意味はありませんw、ふいんき(←なぜか変換できない)ですw。*24

あと、北河大次郎著「近代都市パリの誕生――鉄道・メトロ時代の熱狂」(2010年)と久繁哲之介著「地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?」(2010年)を買った。前者は名著の予感。僕はこういう本を待っていた。後者は「コンパクトシティ政策」を批判している本らしいので、義務感(?)*25から買ったのだけど、うーん、読まないかも知れない(おいw)。

あと、前回の「ハイブリッド世界の本質」とその前の「メモ-5」の記事で書いた、「Dance and Music Center in The Hague」の建築コンペは、「第2ラウンド」へ進んで、最終16案が最終3案に絞られた。残った3案は、「ノイトリングス・リーダイク(No.12)」の案と僕の一押しの「トーマス・ラウ(No.14)」の案と一番人気の「ザハ・ハディド(No.16)」の案です。随時、報告する。以上。

あ、あとそれから、しばらくはブログの更新頻度は落ちたままになると思う(仕事をため込んだ、ワラ)。さすがに、尻に火がついてきた、泣。僕は今、燃えています(尻が)。

*1:「屋上庭園」と「斜路(スロープ)」と「白」が共通している。

*2:日本語字幕付きはここ→動画。この動画の6分2秒〜6分7秒で、ビャルケ・インゲルスは、「環境にやさしいというのはどうも苦しい思いをして善行をしなければならないネオ・プロテスタンティズムみたいになっています」と述べている(字幕みて気づいた、泣)。前回の「ハイブリッド世界の本質」の記事参照(「プロテスタンティズム」)。あと、この動画を作った「TED」のビジネスモデル(動画の無料配信)は、クリス・アンダーソン著「フリー〜〈無料〉からお金を生みだす新戦略」(2009年)で解説されている(P.170-171、P.297)。

*3:旧ブログの「Integral Project-3」の記事の最後の「おまけ」参照(「ループ」)

*4:追記。前者の「」は「映画Bigのトムハンクス気分になれる階段」(ギズモード・ジャパン、2009年10月18日)より。ちなみに、映画「ビッグ」(1988年)のそのシーンはこの動画っす。後者の「」は映画「インセプション」(2010年)予告編の動画。この映画は先日、見てきたけど、僕に上映時間163分は長すぎる、死ぬかと思った、泣。まっ、「インセプション」(「埋め込み」の意)が「毒」である理由は、この映画の究極の「ネタバレ」wになるので、詳しくは書かないけど、主人公コブが妻モルに埋め込んだエクリチュール(「ここは現実ではない」)が、環境の違いによって、2つの意味(「薬」と「毒」)を持ってしまった、ということ。詳しくは映画館で。

*5:旧ブログの「into the virtual」の記事参照(「ミニマムとは究極の装飾であり、最も独善的な犯罪であり、バロック様式の現代版である。」、レム・コールハース

*6:メモ-5」の記事参照(「多くの場合、私たちは特定の認識可能な環境に結びついている行動パターンを反復している。」、ケヴィン・リンチ

*7:「一九七〇年代にゼロックス社のパロアルト研究所で働いていたアラン・ケイというエンジニアが、(中略)コアとなる演算処理のためにトランジスタを節約するのではなく、(中略)ディスプレー上が魅力的になるようにシリコンチップをムダに配置したのだ。アイコンを描いたり、マウスでポインタを動かしたり、さらには、ただかっこよく見えるという理由で、機能のないアニメーションを加えたりした。浪費をして、見て楽しいものをつくる目的はなんだろう。それは子どもを含む一般の人にコンピューターを使いやすくすることだ。ケイのGUI(操作の対象が絵で表現されるグラフィカル・ユーザー・インターフェース)の仕事は、ゼロックス社のアルトやのちのアップル社のマッキントッシュにインスピレーションを与え、一般の人にコンピュータを開放することで世界を変えたのである。技術者の仕事はどんなテクノロジーがためになるかを決めることではない、とケイにはわかっていた。」(クリス・アンダーソン著「フリー〜〈無料〉からお金を生みだす新戦略」、P.117)。また、この今引用した部分の前後を読むと、「アイコン」以前と「アイコン」以後で、コンピュータの社会的位置付けが180度変わっている(「トップダウン」から「ボトムアップ」へ)ということがよく分かる。ところで、クリストファー・アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」の難点は操作(学習)の難しさにある。よって、この「パタン」の標題を「アイコン」(「消極的アイコン」)に置き換えたらいいと思う。子どもが冷蔵庫にシールを貼りまくるように、都市が「自然発生」するかも知れない(w)。まっ、もちろん、この様は「ランゲージ」ではない(「セミ・ラティス」でもない)けどな(w)。あと、YouTube上の「サムネイル」が(静止画ではなく)動画になれば、更に使いやすくなると思う。あと、割とどうでもいいんだけど、アメリカの学生のアラン・ベッカー(Alan Becker)が作製した「Animator vs. Animation」(2006年)参照

*8:念のため、僕は「占い」とか全く信じてない。でも、僕の「手相占い」が当たるのは、本当です(w)。「悪徳と美の館」の記事参照(「最上部は占星術の研究所」)

*9:フィンランドの「Musuta Ltd.」が作製した「Urban Abstract」(2009年)参照。この動画には「物理演算」が使われている。2010年「カンヌ国際広告祭」デザイン部門で金賞受賞。

*10:割とどうでもいいことだけど、「外国人からの注目度が高かった意外な日本の観光名所ランキングトップ20」(GIGAZINE、2009年4月9日)によると、1位は「築地市場」、2位は「東京ディズニーランド」、3位は「ポケモンセンター東京」です。「金閣寺」は7位、「清水寺」は12位。あと、割とどうでもいい記事だけど、旧ブログの「東京ディズニーランド」の記事参照

*11:H&Mモデル」追記3の記事参照(「1930年代に労働者や市民の運動が反映され、すべての人々が平等にその生活のなかで文化を享受するという、生活と芸術や文化との結合が早くから図られているのが、スウェーデン文化政策の特徴である。」、後藤和子)

*12:「日本は自信を失っている」74% 朝日新聞世論調査」(朝日新聞、2010年6月10日)から少し引用すると、「(前略)「政治、経済、社会の仕組みを大幅に改革することが必要」という意見が57%で「いまの制度を維持しながら改良」の40%を上回る。(中略)今後の日本の進み方については「一生懸命がんばって経済的豊かさを向上させていく」が51%、「ほどほどのがんばりで、ある程度の豊かさを得られればよい」が43%と見方が分かれた。一方、「経済的に豊かだが格差が大きい国」と「豊かさはさほどでないが格差の小さい国」のどちらを目指すかでは「格差が小さい国」73%が「豊かな国」17%を圧倒。(後略)」

*13:メモ-4」の記事参照

*14:メモ-3」の記事参照

*15:「ハワードの生涯は多様である。(中略)一九世紀のちょうど真中に、ロンドンで生まれた彼は、階級にも教育にも特別な出自はない。一五歳で店員になり、青年期にはシェークスピアの素人俳優でもあったらしい。二一歳で渡米し、ネブラスカ州の土地で農民として定住するつもりになるが、失敗し、シカゴに行って事務所勤めをする。ここでは裁判所と新聞のための速記者である。一九世紀が四分の三を過ぎたところで英国に戻り、議会の記録係となりながら会社を興そうとするが失敗。次には機械の発明である。これは旨くいって、この自分の発明とタイプライターの貿易のために再び渡米。この間には宗教サークルにも、土地問題に関心をもつ改革派のサークルにも入る。そしてベラミーのユートピア小説を読んで感激し、英国での出版を企てる。(中略)こうした経験の後に、一八九八年、「明日・真の改革に至る平和な道」が出版され、一九〇二年、改訂を伴って『明日の田園都市』として発表されるのだ。(中略)一九〇三年、田園都市開発のための株式会社を興し、出資者を集めて一九〇五年、ロンドン郊外に最初の「田園都市」であるレッチワースを実現させ、自ら住む。(中略)その後、一九二一年にはウェルウィンを実現させ、移り住む。一九二七年にはナイト爵に叙せられ、サーの称号を得て、翌年死亡する。このように彼の生涯はディケンズの小説のようである。」(相田武文+土屋和男著「都市デザインの系譜」(1996年)、第7章「ハワード」、P.90-92)。いずれにせよ、「多様性」を掲げる思想家(市民運動家)の「都市論」よりも、「多様」な生涯を生きた人間が描いた「都市論」のほうが魅力的だと僕は思う。「メモ-5」の記事参照(ジェイン・ジェイコブズ

*16:ハイブリッド世界の本質」の記事参照(「300万人のための現代都市」、ル・コルビュジエ、1922年)

*17:理想都市」、「ハイブリッド世界の本質」、別ブログの「雑記6」の記事参照(レム・コールハース著「コールハースは語る」)。ちなみに、その「雑記6」の記事の注釈1でも書いたのだけど、ブログタイトルの「mise en relation」は、この本(のP.104)から採っている。その前後を少し引用すると、(レム・コールハース設計の「シアトル公立図書館」について)「床や天井面をインタラクティブなものにし、色のかたまりだけでなく、情報のかたまりも見えるようにするつもりです。美的に目立つ物を配置して、人々が特定の地点に集まるように誘い出したり、別々の方向へ散らばらせたりもする。(中略)僕たちはますます野心的になっています。(中略)僕たちがやっているのはすべての再編成なのです。(中略)各分野がスパイラル状に連続し、そのなかを移動するしくみになっています。私の見方では、それらは下部部門ではなく、英語の表現にはないのですが、フランス語でいうところの「mise en relation (関係性に委ねる)」により近いもの、あるいは訳して「連続的な露出」というものになる。」(P.103-105)

*18:小島寛之著「確率的発想法〜数学を日常に活かす」(2004年)、第5章「フランク・ナイトの暗闇〜足して1にならない確率論」参照

*19:メモ-4」の記事の冒頭に貼った(NHK爆笑問題の)「粘菌」の動画(4分6秒〜30秒と27分2秒〜20秒)参照。あと、前に「メモ-3」の記事で貼ったこの動画(「博士の異常な鼎談」、ひろゆき、後編3/3)の一つ前のこの動画(後編2/3)参照(40秒〜50秒と4分6秒〜4分33秒、「いかに「低空飛行」するか」、「コストが非常に安い」)

*20:明日の田園都市-3」の記事参照(「ハワードは「田園都市」を大都市の「磁場」の「外側」に建設した」)

*21:あと、関連して、「ユナイテッドヌード」の「Lo Res Project」参照(画像下の「GALLERY」をクリック)。これは、リテラルな「情報」(ビット)をリテラルに「物質」(アトム)化した、というデザインです。面白い。「元の車はなんでしょう?」(ギズモード・ジャパン、2010年7月17日)より。別ブログの「マンハッタンのゆくえ(後)」の記事参照(「ユナイテッドヌード」)

*22:割とどうでもいいことだけど、その写真の後ろに写っているのは、「イオン」の本社ビル(「イオンタワー」、1994年竣工)です。昔、僕が(仕事で)ちょくちょく通っていたところです。無駄に「エコ」意識が高くて、エントランスホールが(昼間でも)真っ暗です。というか、「イオン」はそういうの大好き(ワラ)。あと、「ガーネット」 (奥華子、2006年)のPVのロケ地も幕張副都心。

*23:Royksoppの「Happy Up Here」(2009年)のPVです。旧ブログの「Airplane House」、「Flamboyant」の記事参照(「現代の世界はこんなとこ→動画」、Royksopp、「Remind Me」、2002年)。ちなみに、その「Remind Me」のPVを作製したフランスの「H5」は、2009年に「Logorama」と題した短編アニメを発表して、「第82回米アカデミー賞短編アニメーション賞」を受賞した→動画。字幕付きはここ→動画。旧ブログの「グローバリゼーション-1」、「into the virtual」の記事参照(「ロゴ」)

*24:念のため、はてなキーワードの「なぜか変換できない」の項参照

*25:別ブログの「エソラ」、「アルチュセール」の記事参照(「「コンパクトシティ」誘導政策によって、中心位置を元に戻そうというのは、かなり無謀」)。旧ブログの「Kinkyo-2」、「Coffee & TV」の記事参照(「車社会化された現代で駅前商店街が衰退したとしても嘆くことでもない」)。うーん。まっ、良し悪しは別として、僕がニューヨークへ行っていたときはほぼニューヨーク郊外に住む友人の家に居候していてw、毎日NJ トランジットプリンストン・ジャンクション駅からマンハッタンまで通っていたのだけど、駅前には小さな売店1件と駐車場しかなかった→動画

ハイブリッド世界の本質

(前回の「メモ-5」の続き)

えーと。。

ところで、前回の「メモ-5」の記事で、横浜へ行って「船に乗ってきた(w)」と書いたのだけど、その船の名前は「マリンルージュ」で、そのウィキペディアには、サザンオールスターズの曲の「LOVE AFFAIR〜秘密のデート〜」(2005年)の歌詞に本船が登場する、と書いてありました(→歌詞)。もちろん、僕はこの曲をよく知っているのだけど、この「つながり」に今頃、気付きました、泣。*1

更に、前回の記事で、「Dance and Music Center in The Hague」の建築コンペについて書いたのだけど、その建設予定地を、「グーグルマップ」で探して、その「ストリートビュー」を見て、また泣きました(→ストリートビュー)、泣。そこ(建設予定地)に映っているのは、レム・コールハースの(初期の)代表作、「ネザーランド・ダンス・シアター」(「Netherlands Dance Theater」、1987年竣工)です*2。つまり、これを取り壊す、ということです。今頃、気付きました、泣。「情報空間」(ビット空間)は断片的過ぎて困ります。*3

それから、前回の記事で、ジェイン・ジェイコブズ著「アメリカ大都市の死と生」(1961年)を読んだ感想で、「(前略)ジェイコブズの批判は正しい。でも、僕はハワードを擁護する、というか、「都市論」以前に、これは思考パターン(の違い)の問題だと思う。」と書いたのだけど、こんなことを書いてはイケナイ。ジェイン・ジェイコブズは、都市の人間を「観察」したのであり、「観察」には、常に何らかの「真理」があるものなのである。

また、前回の記事の追記で、「ジェイコブズは「アメリカ大都市の死と生」で、犯罪を予防するために、都市に「多様性」が必要なのだと論じている。でも一方、近年の「数学」や「経済学」では、より人間的な「人間」のモデルを用いている。「都市論」もそうあるべき。」と書いたのだけど、(本当に「多様性」が犯罪を予防しているかは別として*4)、最悪の被害を回避しようとするのも、「人間」の古くからの行動の一つである。つまり、これも「より人間的な「人間」のモデル」なのである(マックスミン原理*5)。いずれにせよ、ジェイン・ジェイコブズは、「都市」に関する可能なあらゆる全てを考え尽くそうとしたのであり、それは近年の建築学、都市工学、政治学、経済学、等々の専門分化(または、学問ごとの正統性)に居直った態度*6とは一線を画している。(ジェイン・ジェイコブズの)この本はほんと素晴らしい。*7

(あと、その前回の記事の追記で、「ハワードの「田園都市」の都市モデルは、「良きイギリス人」を(そこに暮らす)人間像においている」とも書いたのだけど、これは「明日の田園都市-2」の記事で書いたように、かなり「言い換え」ている表現で、エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)は、その前の「明日の田園都市」の記事で書いたように、決して「長閑(のどか)な」本ではなく、もっといろいろと「工夫」(発明)がされている。これは、イギリスの「保守」思想が分かると、あ、なるほど(!)と感嘆してしまえるような「工夫」です。そのうちブログに書く。)

それから、前回の記事で書いた「アイコン建築」について、少し考えてみた(アウトラインだけ)。別ブログの「雑記5」の記事の注釈7で、磯崎新の「新建築2009年3月号」の「〈建築〉/建築(物)/アーキテクチャー」の小論から、「プロテスタンティズムモダニズムもその運動の始まりは、アイコンの破壊だった」の一文を引用したのだけど、この意味は、アレグザンダー・ツォニス著「ル・コルビュジエ 機械とメタファーの詩学」(2007年)の第1章を読むと、よく分かる。そのうちブログに書く(たぶん)。*8

まっ、大体は前に「レッセフェールの教訓」の記事の追記で書いたような話なのだけど、まず第一に、「アイコン」(聖像)も「アイコンの破壊」(聖像破壊)も、どちらも「宗教」運動だったということ。第二に、ル・コルビュジエはその後者(「アイコンの破壊」)を「モダニズム」運動に結び付けたということ。そして第三に、マックス・ウェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905年)を読まなければ(!)と思い立ったということ、ではなくてw、上記のル・コルビュジエの本の第1章と稲葉振一郎著「社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか」(2009年)*9の第10講「ウェーバーマルクス主義」(のP.178-181)を読むと、すぐ気付くようなことです。キーワードは「修道院」。いずれにせよ、ル・コルビュジエマックス・ウェーバーから読むと良い、ということが分かった。そのうちブログに書く(たぶんw)。

*10

他には、ル・コルビュジエの「300万人のための現代都市」(1922年)の中心部に建つ24棟の高層オフィスビルはそれぞれが「十字型」なのだけど、かつての中世都市の中心部には「ゴシック様式の教会」が天を衝くように建っていて、そして、これも「十字型」なのである(→グーグルマップ)というような話も、少し考えてみた(アウトラインだけ)*11。つまり、第一に、これも「アイコン」ではないか、ということ。第二に、「教会」を「高層オフィスビル」にすり替えているところに、「聖像破壊者」としてのル・コルビュジエの真骨頂があるのではないか、ということです。(そして第三に、「合理的組織化」がされている、ということです)。

でも、このようなアプローチでは、(類推的に)何とでも言えてしまえるので、結構、難しいのかも知れない。また、ル・コルビュジエは「モダニスト」の中でも、かなり特異なのではないかとも思える。もちろん、「モダニズム」は決して一枚岩の運動ではなかったのだけど、「アイコン建築」について考えるならば、モダニズムの先駆者であるアドルフ・ロース(→動画*12に着目したほうが良いのかも知れない(と今、気付いた、泣)。ぼちぼち考える。

うーん。キーワードは、ではない、キー建築は「シカゴ・トリビューン新聞社」の建築コンペ(1922年)のアドルフ・ロースの案(→ここの一番左)だと思う*13。まさに「アイコン建築」です。更に、これは究極の消去法(抽象)*14の外観だと思う。つまり、「高層建築」*15という必然的に目立つ建築(「アイコン」となる建築)に対して、どのような「アイコン」が最も目立たない(最も保守的)かといった観点から、この外観(ドリス式の円柱)が選ばれている(もちろん、当時の装飾的なゴシック・リヴァイヴァル様式に対して、骨太の古典主義様式で対抗するという図式もあったかも知れないし、または、「新聞社」なので、コラム(column)と円柱(column)の語呂合わせかも知れない)のだと思う。これを「消極的アイコン」と名付ける。

まっ、少なくとも、このようにして考えると、このアドルフ・ロースの建築コンペの案の外観と、アドルフ・ロースが設計した一連の(無装飾・無様式の、モダニズムの)白い住宅の外観が全く矛盾しない、ということが言えるのである。

また、上記のその一連の白い住宅の外観は、アドルフ・ロース自身が書いているように、20世紀の都市生活者(または、故郷喪失者)の倫理と外見(ファッション)に由来している。よって、都市生活の上に「情報空間」(ビット空間)が覆い重なっている21世紀の今日の「ハイブリッド世界」においては、建築のモダニズムの(最も保守的な)基層が耕されて、柔らかい(のような)土壌に生まれ変わるのではないか、と考えられる*16。そして、その上で建築のモダニズムの正当かつ批判的な後継者たらんとするならば、答えは「アイコン建築」以外にはあり得ないのではないか、と僕は考える(もちろん、これは「仮説」です。他には、建築自身が建築自身の「アイコン」を再帰的に選択し続けるという「ポストモダン」な選択(「果てしない循環」としての恒常性)も考えられるけど、歴史的にみれば、その行く末はかつてのゴシック・リヴァイヴァル様式と同じになる、と思われる)。*17

…と、頭で考えるよりも早く、手を動かしてしまった(即興で書いてしまった)けど、すごい極端(簡単)にまとめると、第一に、建築のモダニズムと「アイコン建築」は矛盾しない、ということ。第二に、20世紀の建築は「都市空間」(アトム空間)から生まれた、21世紀の建築は上記の「ハイブリッド世界」から生まれる、ということです。また、アドルフ・ロースに倣うならば、21世紀に「建築」は消滅する、そして、かつて「建築」と呼ばれていたものは、「アイコン」(または「ランドマーク」)と「建物」の混合物になる、ということです。

今のところは、「アイコン建築」という用語は、フランク・ゲーリー*18が設計した「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」(1997年)とか中東のドバイ(→動画動画)に建っているような「高層建築」等に対する「蔑称」として使われるケースが多いけど、歴史的にみれば、概ね、「蔑称」だったものが次世代を制覇しちゃうものなのです(おいおいw)。と言うわけで、21世紀の建築は「アイコン建築」です(キリッ)。以上。*19

(というか、ブログに初めて「建築論」らしきことを書いた気がするw。「都市論」が「謎を解くこと」であるならば、「建築論」は「謎を作ること」なのかも知れない。この違いは、単純に「設計者」のコントロール下にあるか否かである(そして、この中間に「公共建築」がある)。いずれにせよ、「アイコン」と「アイコンの破壊」と「アイコン建築」と「モダニズム」と「ポストモダン」の関係を、(情念と常識を飛び越えて)事実と論理によって、再定義する必要がある。続きは、また今度書く。)

では、今日の本題。

本題は、前回の「メモ-5」の記事の最後で「次回(中略)書く」と書いた、クリス・アンダーソン著「フリー〜〈無料〉からお金を生みだす新戦略」(2009年)の第13章「(ときには)ムダもいい」と第14章「フリー・ワールド」についてなのだけど、んー、この2つの章を読めば分かります(おいおいw)。「私たちが足を踏み入れたハイブリッド世界の本質」は何かについては、同書の第13章(のP.262-263)に簡潔に分かりやすく(著者自身の体験を元に)書かれています。そして、僕はそれに2つ付け加えるというだけですw。キーワードは「希少さ」*20。次回書く。今回は即興で「アイコン建築」論を書いたけど、これは想定の範囲外だった、泣。

ハイブリッド世界の本質-2」に続く。

(追記)

あと、前回の「メモ-5」の記事(と上記)で書いた、「Dance and Music Center in The Hague」の建築コンペの最終16案の感想を、ネットサーフィンしてみた。と言っても、僕は(外国語は)英語しか読めないのだけど、英語では「ザハ・ハディド(No.16)」の案が(ダントツの)一番人気だった。僕の一押しの「トーマス・ラウ(No.14)」の案はそうでもなかった。僕は「メカノー(No.11)」の案が勝つと思っている。その理由はこの案以外は、(これは設計の与条件のせいでもあるけど)、中層の建物のボリュームが敷地に対して大きすぎる(敷地にマッチしていない)からです。でも、「メカノー(No.11)」の案は、そこを割り切って、低層と高層を組み合わせた形の建築にすることで、この問題を上手く解決している。そこがいいと思った。

あと、この建築コンペの感想を読んでみて面白かったのは、「ノック・オフ」(「knock-off」)という言葉を、割と頻繁に見かけたこと。これは「模造品」、「劣化コピー」という意味です。例えば、「「ディラー・スコフィディオ+レンフロ(No.07)」の案は、レム・コールハースの「ジュシューの図書館コンペの応募案」(1992年)のノック・オフだ(!)」といった具合です。要するに、「ノック・オフ」を作ってはいけないのだ、ということです。また、これと関連して、レム・コールハース(巨匠、造物主)に対するアンビバレントな感想も多かった。例えば、「Aedas Limited(No.01)」の案は、どちらかと言えば、古いタイプの建築(日本でも90年代前半で見かけなくなった?)なのだけど、この案が意外と高評価されていた。そして、その理由が、全16案の中で最も「レム・コールハースに似ていない」からだった。このような文化は、良し悪しは別として、(次回書く予定の)クリス・アンダーソン著「フリー〜〈無料〉からお金を生みだす新戦略」(2009年)の第14章「フリー・ワールド」で書かれている中国の模造文化(「儒教では、他人の作品をまねることは敬意の表明」(P.269)であるらしい)とは対照的である。

あと、オランダ語が読めれば、もっと(建築関係者以外の)リアルな感想も探せたかも知れない(泣)。以上。*21

(追記2)

あと、割とどうでもいいことだけど、昨日(日曜日)模試の帰りに、久々に書店へ行った(w)。本多久夫著「形の生物学」(2010年)とマイケル・サンデル著「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」(2010年)は、普段なら迷わずに「タイトル買い」しているところだけど、耐えた(泣)。来年、読む。後者のマイケル・サンデルについては、前に「コーリン・ロウ-3」の記事の追記と「メモ-2」の記事と追記で書いた、仲正昌樹著「集中講義!アメリカ現代思想―リベラリズムの冒険」(2008年)に解説されている。でも、この本はその「メモ-2」の記事の冒頭で書いたように、「読後感が独特」で、「リベラリズム」(ジョン・ロールズら)が主役の本であるにも関わらず、読み終えると、「コミュニタリアニズム」(マイケル・サンデルら)が一番輝いて見えるという変わった本だったという他に還元され得ぬ記憶が、今、鮮やかに蘇る(泣)。以上。*22


(6月15日 追記)

記事に画像を足してみた。うーん。やや足しすぎたかも知れない。まっ、いいか(w)。

*1:と言っても、横浜で「秘密のデート」をしてきたわけではない(そこは歌詞と違うw)。この曲は、前に別ブログの「柏 マイ・ラブ」の記事で書いた、爆風スランプの「KASHIWA マイ・ラブ 〜ユーミンを聞きながら〜」の横浜市バージョンだろうか。「メモ-4」追記の記事も参照(「有楽町で逢いましょう」、「渋谷で5時」)

*2:この頃の(初期の)レム・コールハースの建築は、「ロシア構成主義」的(立体の「組み合わせ」的)だった。レム・コールハースは、著書「コールハースは語る」(2008年)で、「なぜレオニドフに関心があったのですか。」の質問に、「(前略)彼は火急の建築家だった。(中略)彼はいつも黒のなかに白い線を描いた。火急の建築家は本質だけを描きだし、それが僕を魅惑するのです。なぜなら僕は建築のエッセンスに関心があって、建築のしがらみや複雑な手続きから、いやそもそもの物質性すべて(引用者註:「アトム」)から逃れようとしているからです。」と答えている(P.18)。「理想都市」、別ブログの「雑記6」の記事参照(同書)。「画像テス」の記事参照(「マグニドゴルスク都市計画」、イワン・レオニドフ、1930年)。ところで、割とどうでもいいことだけど、このブログを「白黒反転」にしている理由はこれ(レオニドフ)です。でも、そろそろ元(別ブログ)に戻そうかな、と思っている。白黒反転だと、可愛い「顔文字」を入れても、あまり可愛くはならない(泣)。そこが不自由というか、あ、顔文字は「本質」的ではないということか。(´・ω・`)ショボーン

*3:1987年に竣工した「ダンス・シアター」を、わずか23年で解体するのはどうなんだ(?)とも考えたけど、レム・コールハースは著書「コールハースは語る」(2008年)で、「建物の存続が最長で二五年であるというのが自動的な条件になれば、プレッシャーは少なくなるでしょうね。」と語っている(P.94)。

*4:実際、そんなデータはないし、犯罪発生率は大都市のほうが高い。良し悪しは別として、ウィキペディアの「ルドルフ・ジュリアーニ」(ニューヨーク市元市長)の項参照。あと、「遊具広場、囲って安心?孤立?…都立公園」(読売新聞、2010年4月13日)も参照。

*5:「(前略)このように、最悪の数値が最大化されるような行動を選ぶ方法を「マックスミン原理」(Max-min principle)といいます。マックスミン原理は、わたしたちの日常的な判断とも一致します。(中略)また、災害など緊急時のリスク管理にもこの方法論が用いられるのが一般的です。最悪の被害を想定し、それがもっとも少なくなる(負の利益をゼロに近づけて最大化する)ような政策を施行するのです。」(小島寛之著「確率的発想法〜数学を日常に活かす」(2004年)、P.120)。「日食」の記事参照(「ミニマックス型」)。いずれ詳しく書く。

*6:モリスの建築論」注釈4の記事参照(「人々はどんどん愚かになっていくのでは」)

*7:前回の「メモ-5」の記事で、「まっ、しばらく様子見する(w)」と書いたのだけど、今のところ、まだ反響はないようである。一応、検索してみると、「黒川訳より読みやすい」、「読みにくい黒川訳のほうが良かった」、「黒川訳の意味のわからなさは、私をジェイコブズに近づけた」、「黒川訳には熱意があった、山形訳はクールすぎる」、「あとがき(山形浩生の「訳者解説」)が一番面白い」とか、そんな感じでした(w)。と言うよりも、黒川訳が意外とちゃんと読まれていて、そっちに驚いた(汗)。別ブログの「ノエル」5の記事参照(「最初の5ページで挫折した」)。あと、読売新聞(2010年5月10日)に小説家・評論家の松山巖の書評がある→本よみうり堂

*8:ちなみに、この本の第1章によると、ル・コルビュジエは若い頃、(ニーチェの他に)、ルソーの本も読んでいたらしい。「メモ」、別ブログの「アルチュセール」注釈8の記事参照(ニーチェ)。「メモ-2」、「レッセフェールの教訓」追記、「モリスの建築論」追記の記事参照(ルソー)。あと、この本の同章には、ル・コルビュジエの出身地の「ラ・ショー=ド=フォン」の都市史についても詳しく書いてある。そのウィキペディアによると、ラ・ショー=ド=フォンは、2009年に世界遺産リストに登録されている。ウィキペディアの「ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル」の項によると、「1794年の火災で、町の建造物群は焼失した。(中略)啓蒙時代の申し子といえる都市計画が採用された。(中略)公益と私益の間で合意された成果であった。1834年に(中略)新しい都市計画が採用された。(中略)火災の延焼を防ぐために安全性や衛生面が考慮された(中略)、全ての人に良い日当たりを保障することも考慮された。そして再建が実行され、都市の碁盤目状の区画に従い(中略)発達した。」とのこと。あ、なるほど。旧ブログの「Guide to Shopping」の記事参照(「空間の二重性」、カンザスシティウォルト・ディズニー

*9:十九世紀の罠」、「モリスの建築論」注釈4の記事参照(同書)

*10:ウィキペディアの「Florence Charterhouse」の項参照

*11:別ブログの「雑記5」の記事の注釈8では、ル・コルビュジエの「300万人のための現代都市」(1922年)と「輝く都市」(1930年)の「中心」部の用途の違いについて書いた。一つ補足すると、後者の「輝く都市」の中心は「二重」になっているとも言える。つまり、都市全体の「中心」(空間の中心)と、図を人体に似せることによって表現される「中心」(人体の頭部)という二つの「中心」が一枚の図面に、狡猾に重ね合わされているのである。

*12:メモ-4」、旧ブログの「Natural World-1」の記事参照(アドルフ・ロース)。ル・コルビュジエは、アドルフ・ロースを(「恐ろしく目醒めた」建築家であると)絶賛している。

*13:ついでに、その右上はワルター・グロピウス案です、「モダニズム」の記事参照(ワルター・グロピウス)。あと、この建築コンペの他の案がここにある。建築史的には、「中世リヴァイヴァル様式とモダニズムの両方が重なった初の建築コンペであった」とされている。実際に建ったのはこれ(ネオ・ゴシック様式)。ちなみに、この建築コンペのアドルフ・ロース案は、建築史上の「三大謎」の一つに数えられている(後の二つは誰も知らない)w。

*14:このアドルフ・ロース案の外観は、マルセル・デュシャンの「レディメイド」に通じる感性かも知れない(いや、たぶん違う)。別ブログの「スロー雷雨」、旧ブログの「写真銃-1」、「写真銃-3」、「Natural World-2」の記事参照(「レディメイドの選択は常に視覚的な無関心、そしてそれと同時に好悪を問わずあらゆる趣味の欠如に基づいています。」、マルセル・デュシャン

*15:別ブログの「イオンレイクタウン」注釈2、旧ブログの「TRANSPARENCY」、「Material World-2」の記事参照(「"form follows function"は史上、前例がなかった高層建築(摩天楼)の芸術論」、ルイス・サリヴァン

*16:明日の田園都市-2」の記事参照(「柔らかく耕し、」)

*17:モダニズム」の記事参照(「一九世紀の建築家は様式リバイバルの果てしない循環にとりつかれ、」)

*18:別ブログの「別世界性」の記事参照(「Serpentine Gallery Pavilion 2008」、フランク・ゲーリー

*19:「ゴシック」も元は「粗野で野蛮」という意味の「蔑称」だった(→ウィキペディア)。「印象派」も「単なる印象を絵にするとは何事か」という意味の「蔑称」だった。あと、旧ブログの「アメリカの住宅」の記事参照(「2x4は1830年代にアメリカのシカゴで誕生した。これの前身は「バルーン工法」と呼ばれていた。(中略)当時のまだ職人気質だった大工たちがこの新しい工法を「まるでバルーン(風船)みたいだ」と罵ったことからその名が付いたとされている。」)

*20:H&Mモデル」、旧ブログの「希少性」の記事参照(「希少性」)。別ブログの「100年後」の記事参照(「何でも自由にコピーできるとモノに希少価値がなくなるでしょ。(中略)社会のシステムが変わると思います。」、ひろゆき

*21:「5年後、言葉の壁は消える」、グーグルが検索技術への取り組み」(日本経済新聞、2010年6月9日)

*22:ハーバード白熱教室」(NHK教育、2010年4月4日〜6月20日、全12回)、英語版は「Justice with Michael Sandel

メモ-5

おお。前に「メモ-3」の記事で書いたひろゆきが、その内容をブログに書いている。これは面白い。さすが。

ひろゆき@オープンSNS、(2010年5月8日、9日、10日)
人件費と土地代を下げれば、日本の状況はよくなると思うんだよね。
土地課税をして、土地の値段と家賃をさげる話。
土地の値段と家賃を下げて、税収をあげる話 Q&A編

あと、これと関連して、小飼弾のブログの「ずるいとunfairの違い - 書評 - ずるい!? なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか」(2009年12月25日)の記事参照。この記事では「今後10年で最重要なのは、(中略)面白いゲームのルールを描くことなのだ。」と結んでいる。というわけで、今後の東京に必要なのは都市(空間)のルールを変えること(「土地税制の改革」!)なのである。

(これに対して、最近の「消費税増税」政策にせよ、「インフレターゲット」政策にせよ、「ベーシックインカム」にせよ、これらは皆に等しく損をさせる、または皆に等しく再分配をするという論理であり、つまり、この「皆に」を説得性の担保においているだけである。確かに「皆に」等しく安全・安心を保障することは大切であるけど、それだけでは片手落ちなのであり、社会や都市を構成しているゲームルール(構造)も、大胆に変えなければならない。←動画*1

〜さて、ところで、ブログ更新が2ヶ月空いた。最近はドタバタしているというか、今年、某試験を受けるというだけです(w)。僕は同時に2つのことをやるのは得意なんだけど、同時に3つをやるのはちょっと難しい、といったところです。(今週の)月曜に願書を出してきた。あと、一応、昨年末から学校に(週一で)通っていて、日曜には模試(第二回目)を受けてきた。そして自己採点して泣い…てはいないけど(w)、とりあえず、今週から電車の中(←通勤中)でも試験勉強を始めたので、しばらくは「読書」はお休みする。ブログは、これまで読んだ本について、内容を深化させて(ほんとか?)、書こうと思う。

とりあえず、ブログ更新をサボっていた3月〜4月について、メモ。

世界ふれあい街歩き」(NHK)という番組の「コッツウォルズII 〜イギリス〜」(4月23日放送)の回をたまたま見た。「コッツウォルズ」の街については、前に旧ブログ「はちみつ石の景色」で書いているのだけど、この黄色みを帯びた「はちみつ石」の街並みが、赤みのかかった夕日と溶けて(とろけて)混ざり合うという映像はほんとに感動的でした。今も鮮明に覚えている。あと、この街は「19世紀の終わりには芸術の中心」で「ロンドンから芸術家がたくさん来た」と現地の人(絵描き)が語っていて、あ、なるほどね、と思いました。旧ブログ「はちみつ石の景色」、本ブログの「モリスの建築論」の記事参照。

放送大学都市環境デザイン論」(主任講師:仙田満*2+佐藤滋)の第一回「都市再生と都市環境デザイン」(4月1日放送)を見た。番組は香川県高松市の「高松丸亀町商店街」でのロケで、ここは旧ブログの「Integral Project-2」の記事で「実際に行ってみたい」と書いた場所(←まだ行っていない、泣)です。旧ブログの「Integral Project-3」の記事の末尾の「次回書く」リストにも入っているけど、まだ書いてません(泣)。

この「高松丸亀町商店街」は何と400年(!)の歴史がある商店街なのだけど、交通システムが大きく変わった(「瀬戸大橋」が開通した)ことや、近年の都市空間の「郊外化」の影響を受けて、(他の多くの地方都市の駅前商店街と同様に)衰退しつつあった。そこで、地元の人々(民間)が立ち上がり、この本当に由緒のある商店街を、何と「ショッピングモール(のような場所)」に造り変えたんです(!)。この再開発の結果の成否はまだ分からないけど、地元の担当者が「ソフトだけではなくハードも(造り変えなければならない)」と述べていたのがとても印象的でした。これ重要。

そして、この番組の最後に、講師の仙田満は(ダーウィンの生物進化論から引用して)「環境に適合した者が生き残る」*3と述べて講義をまとめた。あと、高松市では(1999年から)「サンポート高松」の工事も進められている。

では、次。

先週、「上海万博」に行って来ました、というのは嘘で(w)、えーと、前に「十九世紀の罠-2」の記事で書いた、デンマークの「BIG」(Bjarke Ingels Group)が設計した「デンマーク館」の写真がこのサイトに載っていた。これCGかと思いました(w)。区別がつきません。とりあえず、前にその記事で貼ったこの動画(の8分52秒〜10分45秒頃)と、最近のこの動画この動画も参照。あと、AFP通信の「コペンハーゲンの人魚姫、上海へ出発 万博で展示」(2010年3月27日)と「人魚姫の像が「骨」に、コペンハーゲン」(2010年4月2日)のニュースも参照。一応、後者のは「エイプリルフール」です(w)。

それから、同サイトの2010年4月23日の記事に「Dance and Music Center in The Hague」の建築コンペの最終16案が載っていた。「メカノー(No.11)」の案と「ザハ・ハディド(No.16)」の案がどうやら有力候補っぽいんだけど、個人的には「トーマス・ラウ(No.14)」の案が面白いなと思いました(動画)。これはイタリアの未来派のボッチョーニの彫刻*4とオランダのデ・スティルのモンドリアンの絵画*5を「組み合わせた」という案です。もちろん、このような方法は得てして深み(奥行き)がないとも言えるんだけど、未来派とデ・スティルそれぞれに固有の「画肌(テクスチュア)」*6のようなものを、空間のあり方の差異に利用している、建築のプログラム(用途、動と静)と関連付けている、というところが案外、構築的(キャラクター的*7)で、ちょっと新鮮に見えました。

とりあえず、僕は「建築論」については、別ブログの「別世界性」の記事以降、結局、全然書いていない(ほとんど「都市論」しか書いていない、泣)ので、何でもいいから書いてみることにした。あと、別ブログの「モーション・タイポグラフィ」の記事で*8、「アイコンと建築の関連について考えてみたい」、でも、「こんなにたくさんの人が言及しているのであれば、…僕は別に考えなくてもいいかも(笑)」と書いたのだけど、あれ以来、誰も言及していないようなので、これも自分で考えることにした。結論を先に言うと、21世紀の建築は「アイコン建築」です(キリッ)。と言っても、まっ、結論以外はまだ何も考えてないけどな(ww)。

では、次。

ケヴィン・リンチ著「時間の中の都市―内部の時間と外部の時間」(2010年)を買った。この本は「1974年に刊行した同名書籍の新装版」で、ケヴィン・リンチの名著「都市のイメージ」も、2007年に「新装版」が刊行されている(僕が持っているのは古書で初版のです)*9。「時間の中の都市―内部の時間と外部の時間」はまだ読み終えてないけど、とりあえず、第1章「都市は変化する」の「ロンドン=一六六六年の大火」と「ハバナ社会主義革命の器」が早速、面白い。そのうちブログに書く。先に第2章「過去の存在」の「時間の根」から少し引用する(P.60-61)。

環境も、法律や習慣に似て、意識的選択をしないでも行動することができる規範を私たちに与えてくれる。私たちは、教会では敬虔になり、海岸では羽をのばす。多くの場合、私たちは特定の認識可能な環境に結びついている行動パターンを反復している。周囲の環境は、その形態によって私たちに一定の行動を奨励している。(中略)したがって、(中略)社会的連続性を維持するためには、過去から伝えられてきた環境の中で古くからの行動を反復する方法が効果をもっている。クロード・レビ=ストロースは、宣教師たちがボロロ族*10にその居住地の伝統的な円形配置を捨てさせることによって、彼らの文化の方向性まで見失わせてしまった例を記録している。

上記の「見失わせてしまった例」は「ボロロ族の集落」の記事参照。というわけで、ケヴィン・リンチレヴィ=ストロースの関連性をやっと(!)確認することができた(前著の「都市のイメージ」では、レヴィ=ストロースについては書かれてない)。

あと、(上記の)引用は、ケヴィン・リンチの考え方の基本をよく表していると思う。あと、念のため、ケヴィン・リンチは20世紀後半の「車社会化」を全く否定してません。前に別ブログの「雑記5」の記事でも書いたんだけど*11ケヴィン・リンチ著「都市のイメージ」は、都市環境の工学的変化(車社会化)によって生まれた「新しい場所」(アメリカの都市)でも(上記の)「社会的連続性を維持する」ことができる、または、そのように都市を造り変えることができる、と書いてある本です。あとそれから、第7章「変化の視覚化」では、イタリア未来派のジャコモ・バッラ*12についても書かれている。まだ読んでないけどな。

(追記。前に「環境のイメージ」と別ブログの「雑記6」の記事で、ケヴィン・リンチは著書「都市のイメージ」で「苦慮している」と書いたんだけど、この「苦慮」をさらっと回避すれば、著書「都市のイメージ」は、近年の「リバタリアンパターナリズム」の文脈ときれいに接続できる、ということに気づいた*13。でも、冒頭の都市の「土地税制の改革」と比べれば、取るに足らないことである。)

さて、ジェイン・ジェイコブズ著「アメリカ大都市の死と生」(2010年、新版)*14を読んだ。この本は結構、長い(分厚い)んだけど、一気に読めた、というか、読み進めながらジェイコブズの思想の「コツ」を習得していくというような本でした*15。でも、「コツ」を習得した後で、それを「気に入る」かどうかは結構、人それぞれなんだと思う。僕はもちろん、えーと、ノーコメントです(w)。と言うのも、巻末の山形浩生の「訳者解説」*16によると、この本は僕が旧ブログの「Integral Project-3」の記事の5で批判した「日本のサヨク」の「バイブル」だったらしいんです。

まっ、とりあえず、「日本のサヨク」は「ハバナ革命軍」の爪の垢を煎じて飲んだらいいと思うよ(冗談ですw)。ところで、読書には、「内在的アプローチ」(テクスト分析)と「外在的アプローチ」(テクストを取り巻く世界の分析)がある*17んだけど、僕はこの本の後者の現在進行形を知りません。「経済学」では、かなり再評価がされている*18んだけど、まっ、しばらく様子見する(w)。*19

いずれにせよ、ジェイコブズの都市を「観察」する目と耳は凄いと思いました。とくに第18章「都市の侵食か自動車の削減か」は、僕が考えているようなこと*20と割とよく似ていて驚いた、というか、これは嬉しい驚きです(w)。あと、第19章「視覚的秩序――その限界と可能性」では、ケヴィン・リンチ著「都市のイメージ」を、かなり好意的に言及している(ちなみに、ジェイコブズは1916年生まれ、リンチは1918年生まれ)。あと、別ブログの「ノエル」の記事の5で、「(ジェイコブズは)ハワードとル・コルビュジエを同時に批判した」と一行だけ書いたんだけど、確かにハワードへの攻撃はすごかった。結論を言えば、ジェイコブズの批判は正しい。でも、僕はハワードを擁護する、というか、「都市論」以前に、これは思考パターン(の違い)の問題だと思う。

(追記。「明日の田園都市-2」の記事では、「ハワードの「田園都市」の都市モデルは、「良きイギリス人」を(そこに暮らす)人間像においている」、「ル・コルビュジエが想定した人間は(合理的な)「近代人」である」と書いたんだけど、単純にハワードもル・コルビュジエも「人間」を見誤っている。現実の都市に暮らす「人間」が皆、「良きイギリス人」だったり(合理的な)「近代人」だったりするはずがなく、「犯罪者」だっている。ジェイコブズは「アメリカ大都市の死と生」で、犯罪を予防するために、都市に「多様性」が必要なのだと論じている。でも一方、近年の「数学」や「経済学」では、より人間的な「人間」のモデルを用いている。「都市論」もそうあるべき。)

あと、ジェイコブズのこの本を読んでいるときはずっと、ニューヨークへ行ったときのことを思い出していた、懐かしいような、全然覚えていないような(え?w)。ニューヨークの街路はアンチョビ臭かった(w)。*21

では、次。少しペースを上げる。

他には、行動経済学の本とか構造主義の本とか暗黙知の本を読んだ。あと、「週刊東洋経済 「鉄道」新世紀」(2010年4月3日)が意外と面白かった。そのうち詳しくブログに書くけど、とりあえず、「(前略)とりわけ厳しい状況に追い込まれているのが地方の鉄道である。(中略)道路の整備が進み自家用車やバスが便利になったことも鉄道離れに拍車をかけた。(中略)この動きに民主党政権の公約である高速道路の無料化政策が追い討ちをかける。(中略)地方鉄道の息の根を止める結果にもなりかねない。」(P.46)んです。*22

民主党には、それが何のスイッチであるかを分かってないまま押しちゃいそうな怖さがある(そのスイッチは押すなよ)。来月からの高速道路「上限2000円」は、妥当だと思う。または、人間の知覚は対数関数(T=log(1+t))なので*23、走行距離と料金の関係を、そのように設定しても良いのかも知れない。あと、「未来の電車はこうなる!」と「誰が電車をデザインするのか?」(建築家もデザインしている*24)と「大手私鉄や地下鉄のジレンマ」(朝夕のラッシュが解消しない理由)と「和歌山電鐵貴志川線」(動画)の記事も面白かった。*25

あと、「思想地図〈vol.5〉特集・社会の批評」(2010年)の「3.社会の数理」の「推論の限界―経済危機を相互推論モデルで読み解く」(小島寛之)と「統計学で社会を捉える―数理構造と可能性」(星野伸明)を読んだ。それから、横浜美術館で開催中の「ポンペイ展 世界遺産 古代ローマ文明の奇跡」を見てきた*26。ついでに、に乗ってきた(w)。あと、首都高速中央環状線山手トンネル(3号渋谷線〜4号新宿線)がいつの間にか開通していて驚いた(動画←超カッコいいです)。

以上(!)。

次回は、前回(と言っても、2ヶ月前だけど)の「明日の田園都市-3」の記事の追記で書いた、クリス・アンダーソン著「フリー〜〈無料〉からお金を生みだす新戦略」(2009年)から書く。この本はほんと面白いです。とくに第13章「(ときには)ムダもいい」(ユーチューブとか)と第14章「フリー・ワールド」(中国市場とか)が面白い。21世紀のデファクト・スタンダードが僕にも見えました(ほんとか?w)。

「ハイブリッド世界の本質(仮題)」に続くー

ハイブリッド世界の本質」に続く。

*1:PerfumeGAME、2008年。歌詞→「play the GAME / try the new world / let's play the game」

*2:闘うレヴィ=ストロース」注釈11の記事参照。「新建築2010年4月号」の巻頭の「建築基本法から都市建築基本法へ」(仙田満)も興味深い。あと、同号の特集「東京2010」の建築家・西沢大良のインタビュー「東京のマスタープランと建築型(ビルディングタイプ)」も興味深い。また今度、改めて書く。

*3:吉村仁著「強い者は生き残れない 環境から考える新しい進化論」(2009年)

*4:Unique Forms of Continuity in Space」(ウンベルト・ボッチョーニ、1913年)。別ブログの「」の記事参照

*5:Broadway Boogie Woogie」(ピエト・モンドリアン、1943年)。旧ブログの「グローバリゼーション-3」の記事参照

*6:旧ブログの「ざっきFIn-2」、「ベビーズム-3」の記事参照(「画肌」)

*7:旧ブログの「Integral Project-2」の記事参照(「まんが・アニメ的リアリズム」、大塚英志

*8:別ブログの「イオンレイクタウン」注釈3の記事参照(「アイコン」、磯崎新)。あと、「ユルバニスム」の記事参照(「アイコニック・アーキテクチャ」、磯崎新

*9:環境のイメージ」の記事参照(「ケヴィン・リンチの本は入手しづらいのが難点」)。「新装版」が続々と出るのは嬉しい。

*10:悲しき熱帯II」、「ボロロ族の集落」、「ボロロ族の集落-2」、「ボロロ族の装飾」の記事参照

*11:ユルバニスム」注釈12の記事参照(Perfumeワンルーム・ディスコ、2009年、動画

*12:旧ブログの「写真銃-1」の記事参照(「鎖に繋がれた犬のダイナミズム」、ジャコモ・バッラ、1912年)

*13:メモ」注釈5の記事参照(「空気を指定してあげなければならない」)

*14:メモ-4」の記事参照。ところで、今後は表記を「ジェイン・ジェイコブズ」で統一する(キリッ)。でも、「ジェイン」だったり「ジェーン」だったり、「ジェイコブズ」だったり「ジェイコブス」だったり「ジェコブス」だったり、検索に困ります(泣)。

*15:cf. 「明日の田園都市」の記事参照(「この本(ハワード著「明日の田園都市」)を読み切るのは、結構、大変なんです(w)。だが、そこがいい。」)

*16:「(前略)一方で、本書に勇気づけられた市民運動の高まりで行政が弱腰になり、インフラ投資が軽視され、専門家の有益な意見まで否定されてしまい、いまや過度の住民エゴが都市の発展を阻害している、という批判も聞かれる。前出のモーゼスは、その強引な手法こそ嫌われたものの、現代ニューヨークの骨格となる多数のインフラを整備した。そしてそれは一九六〇年代以降のニューヨークの復活に(おそらくジェイコブズよりも)大きく貢献した。いまやモーゼスに対する再評価の声も盛り上がりつつある。もちろん、住民エゴまでジェイコブズのせいにするのは酷だ。しかし本書がそうした動きにお墨付きを与えているのもまちがいない。ドグマを否定した彼女が、新たなドグマに貢献する――皮肉ながら、これも歴史の必然なのかもしれない。」(山形浩生、「訳者解説」、P.487)

*17:竹内洋著「社会学の名著30」(2008年、P.46)

*18:メモ-4」、別ブログの「フロリダ」の記事参照

*19:旧ブログの「Kinkyo-2」の記事参照(「「富士山は美しい」と書いて「君はナショナリストだ」と読まれるとしたらややこしい。」)

*20:別ブログの「マンハッタンのゆくえ(前)」、「マンハッタンのゆくえ(後)」、「雑記3」、「雑記4」の記事参照

*21:旧ブログの「ニュー摩天楼-2」、「Material World-5」の記事参照

*22:別ブログの「クルーグマン」、「フロリダ」の記事参照(「高速道路の無料化」)

*23:「人間の刺激と知覚の関係は、対数関数logであらわすことができる。これをウェバー・フェヒナー法則と呼ぶ。待ち時間が4年、8年、16年と経過しても、心理的には2倍、3倍、4倍程度に感じられる。つまり、入力がn乗になっても、出力はn倍で表されるわけである。」(依田高典著「行動経済学―感情に揺れる経済心理」(2010年)、P.83)

*24:小田急50000形電車」(岡部憲明)、「南海50000系電車(ラピート)」(若林広幸

*25:モダン・ライフ」、「メモ-4」、「明日の田園都市-2」注釈3の記事参照(「鉄道」)

*26:日食」(ポンペイ)、「ギリシャ型とローマ型」(古代ローマ)の記事参照

明日の田園都市-3

(前回の「明日の田園都市-2」の続き)

ドタバタしております(汗)。ところで、先々月の「H&Mモデル」の記事で、「(前略)前に別ブログの「アウトレットモール」の記事では、アウトレットモールの「超郊外」立地について書いたのだけど、あ、そういえば、先月、お台場にアウトレットモールがオープンしたらしい。まっ、いいか。ひょっとしたら、商圏的に、お台場は「都心」ではないのかも知れない(←超適当に書いてます、再びw)」と、まさに超適当に書いたのだけど、その答えを見つけた(やっと)。

アウトレット2強火花 三井不VS三菱地 立地戦略に違い」(フジサンケイ ビジネスアイ、2010年3月8日)より。

(前略)富士山をのぞむ静岡県御殿場市三菱地所子会社のチェルシージャパンが運営する「御殿場プレミアム・アウトレット」は、週末ともなれば訪れる人の波でごった返す。(中略)アウトレットモールは(中略)有名ブランドでも時には正規品に比べて5割以上も安く買える。通常の商品を扱う正規店と商圏が重ならないよう、郊外の立地が多い。

(中略)ただ、両社のアウトレット戦略は大きく異なる。

(中略)施設の新設に、より積極的なのが三井不動産だ。(中略)大都市圏郊外でありながら、一部施設を除き鉄道最寄り駅から徒歩でいける場所に出店しているのも特徴だ。(中略)一方、三菱地所は原則、大都市圏から車で90分程度の場所に設置する。正規店から離れることで顧客の奪い合いを避け、商品を充実させる。アクセスを良くするため高速道路のインターチェンジ付近に立地し、敷地面積も比較的広く取る。

この辺は「H&Mモデル」の記事の注釈5と、別ブログの「アウトレットモール*1の記事参照。そして、

(中略)通常の商品を扱う正規店と顧客の奪い合いを避けるためアウトレットモールは、郊外に出店する−。こんな業界の常識を打ち破り、アウトレットに参入したのが森ビルだ。同社は昨年12月、東京・お台場の商業施設「ヴィーナスフォート」を改装し、1、2階部分に正規店、3階部分にアウトレットを設置した。東京23区内では初めてのアウトレット施設だ。

 高級ブランドを展開するアパレル会社などは、正規店の顧客が奪われる懸念から、商圏の重なる都心部へのアウトレット出店には消極的だった。ところが、アウトレットの人気が広がったことで状況は変わりつつある。都心部のアウトレットでブランドが広く認知されれば、そのまま正規店の集客にもつながる相乗効果が期待されるからだ。

「状況は変わりつつある」、「相乗効果が期待される」のです(!)。これが答えです。そして、

(中略)これまで大手不動産会社の独壇場だったアウトレット。だが、大手小売りのイオン*2が参入を検討しているとされるなど、運営会社の業態に広がりも予想される。(後略)

以上。

ところで、上記(一番上の四角の中)に「(前略)三菱地所は原則、大都市圏から車で90分程度の場所に設置する」と書かれているけど、エベネザー・ハワードが建設した「田園都市レッチワース」(1903年−)*3も大都市圏(ロンドン)から車で90分程度の場所にある*4。これは、たまたま一致しているということではなくて、大まかに言うと、両者は大都市の「磁場」*5の「外側」に位置しているということで共通しているんです。「田園都市」と「アウトレットモール」は、割とよく似ているんです。

エベネザー・ハワードの「田園都市」では「職住近接」の生活が目指された。一方、大都市の「磁場」の内側では、前に旧ブログの「Computer City」の記事で、「近代化以降の都市の「職住分離」は必然的だった(分離したほうが「効率」がいい)」と書いたような、都市の「効率性の原理」(または「モダニゼーションの急進主義」*6等)によって、半ば必然的に「職」と「住」は分離してしまう。だから、ハワードは「田園都市」を大都市の「磁場」の「外側」に建設したのです。

(一応、このこと(「田園都市」の立地について)は、エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)には書かれてない。でも、僕にはハワードの考えが全て分かるのだ(!)、ではなくてw、例えば、ロンドン近郊の「ハムステッド田園郊外」(1907年−)*7の建設に対しては、ハワードは「ロンドンに近すぎる」として反対した。その一方、ル・コルビュジエは、都市の「効率性の原理」に則って、大都市の「磁場」の「中心」を大改造することを1925年に提案した*8。ハワードとル・コルビュジエの二人の案(都市モデル)は全く対照的ではあるけど、重要なのは、両者とも都市の「効率性の原理」に則っているということである。または、これをレヴィ=ストロース風に言い換えると、都市の「効率性の原理」は、「不変の特性を保持している」のである。「メモ-4」追記2の記事参照。)

ハワードの「田園都市」の構想は、都市の「スプロール現象」を招いたとか、実際に建設されたのは(「職住近接」型の「田園都市」ではなく)「田園郊外」(住居専用地域)や「ニュータウン」だったとよく批判されているのだけど、その理由はすでに説明した通りで、「田園都市」と「田園郊外」の決定的な違いは、大都市の「磁場」の「外側」に立地しているか「内側」に立地しているかの違いである。「田園都市」が失敗したと言われてしまう理由はとても明快なのである、以上です。*9

(一旦、ここで「下書き保存」←休憩。)

えーと、前々回の「メモ-4」の記事で、エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)に関する「話のテーマ」として(1)〜(5)を挙げて、(1)を前回の「明日の田園都市-2」の記事に書いた(済)。では、(2)の「田園都市」の経済(経営)とマルクス主義*10について。

atプラス 02」(2009年)「『世界共和国へ』に関するノート」、「社会主義と協同組合」(柄谷行人、P.123-127)より。

(前略)マルクスプルードンと対立したあたりから、特に、イギリスに亡命した時点から、資本主義経済の本格的な研究、あるいはイギリスの経済学の本格的な研究に取り組みはじめた。それはまた、イギリスの社会主義運動を知ることでもあった。

(中略)マルクスが重視したのは、一八五〇年にイギリスで広がった協同組合工場である。(中略)協同組合では、労働者自身が労働を「連合」(associate)させるかたちになっている。(中略)マルクスはいう。《この協同組合工場の内部では、資本と労働との対立は止揚されている》(中略)。ここでは、ルソー*11がいうような人民主権が名目的であるのとは違って、これは現実的である。(中略)真の民主主義は政治的なレベルだけでなく経済的レベルで達成されなければならないというプルードンの考えは、協同組合工場において実現されている。

 問題はこの先にある。マルクスは協同組合を称賛し、そこに資本主義経済を揚棄する鍵を見出した。だが、協同組合工場が大きくなって、資本制企業にとってかわることはありなえい、と考えたのである。

(中略)マルクスプルードン派が主流であった「国際労働者協会」(第一インターナショナル)の「創立宣言」において、つぎのように書いた。《これらの偉大な社会的実験の価値は、いくら大きく評価しても評価しすぎることはない》(中略)。現実の協同組合が拡大して資本主義にとってかわることはありえないが、(中略)協同組合化以外に社会主義はありえないのである。そして、資本制企業を協同組合化するための条件は、株式会社によってもたらされた、とマルクスは考えた。(中略)ここで大事なのは、協同組合工場よりもむしろ資本主義的株式企業に、連合的(associated)生産様式への発展への過渡的形態を見出したことだ。(後略)

以上。

ポイントは「株式会社によってもたらされた」のところです。エベネザー・ハワードは「田園都市レッチワース」の建設へ向けて、1903年に「第一田園都市株式会社」を設立した。

「明日の田園都市-4」に続く。

(もちろん、ハワードは上記の「イギリスの社会主義運動」の系譜にあり、マルクスと直接は関係ない。また、上記のマルクスが言った「これらの偉大な社会的実験」とは、イギリスの社会改革家ロバート・オーウェンの理想工業村「ニュー・ラナーク」(Google Map)等のことである。一方、ハワード著「明日の田園都市」(1902年)に、ロバート・オーウェンの名前は、(ほとんど)出てこない。ハワードは、ロバート・オーウェンのような博愛主義(温情主義)的な経営者が「管理」する「理想都市」ではなく、住民(「良きイギリス人」*12)達の「自治」による「理想都市」を目指した。だから、「株式会社」なのである。)

(追記)

ところで、先週、遅ればせながらクリス・アンダーソン著「フリー〜〈無料〉からお金を生みだす新戦略」(2009年)を買った(w)。この本は「世界25ヶ国で刊行され、日本でも16万部を超える大ベストセラー」で、2/3くらいまで読んだのだけど、とりあえず、この本は重いデス(泣)*13。それから、一昨日、書店へ行ったら、今週号の「週刊ダイヤモンド 2010年3/13号」の特集が「FREEの正体」だった、泣いた(泣)。即、買ったけど、これは後で読む。*14

えーと、クリス・アンダーソンの本によると、「二一世紀の無料(フリー)は二〇世紀のそれとは違う。アトム(原子)からビット(情報)に移行する」(P.11)、「この新しい形のフリーは、モノの経済である原子(アトム)経済ではなく、情報通信の経済であるビット経済にもとづいている」(P.22)、「二〇世紀は基本的にアトム経済だったが、二一世紀はビット経済になるだろう」(P.22)とのことで、えーと、前に「「計画」と「規制」」の記事で、「「情報のネットワークが都市を変える」ことに関心ある。どう変わるのか。」と書いたのだけど、その姿が見えつつあるようである。*15

でも、読み進めていると、「ケヴィン・ケリー」という人の名前が出てきた。ケヴィン・ケリーは「Wired」誌の創始者で、著者のクリス・アンダーソンは「Wired」誌の編集長という間柄である。この「ケヴィン・ケリー」ってどこかで聞いたことあるなぁと、(電車の中で)ブツブツ考えていたのだけど、やっと分かりました(!)、というか、僕はブログに書いていた(汗)。別ブログの「フロリダ」の記事参照。都市経済学者のリチャード・フロリダは、著書「クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭」(2008年)で、ケヴィン・ケリーを批判している。

もちろん、これはリチャード・フロリダが正しい(現実にそうなっている)のだけど、「情報のネットワーク」の進化によって、「アトム経済」が「ビット経済」へ変わる、「貨幣経済」が「非貨幣経済」(「フリー」)を利用した経済へ変わる、すなわち、「経済の原則」*16そのものが根本的に変わることによって、都市空間も変わることは大いに考えられることである。実際、今から約100年前の「東京」で、都市空間の「フリー」化は起きたのだ。

初田亨著「図説 東京 都市と建築の一三〇年」(2007年)第三章「銀ブラを生んだ商店街」、「ショーウインドウをもった店舗」(P.48-49)より。

 現在の商店では、値札の付けられた商品を自らが自由に見て歩き、希望の品物を選び出すのが一般的であるが、江戸から明治時代にかけては、座売り方式をとるお店が普通だった。

 座売り方式の店舗では、紺のれんをかけた薄暗い店舗の中で、商人が畳の上に座って客を待ち、訪れた客の求めに応じて、商品を店の奥や蔵からひとつずつ出して見せるという販売方法がとられていた。(中略)この頃の商人たちは、「良賈(よい商人)は深く蔵して虚しきがごとし」といわれたように、よい品物は奥に隠して、店頭には飾らないことを信条としていたのである。このような座売り方式の店舗では、客が購入の目的をもたないで店舗を訪れることは不可能であった。それに対して陳列販売方式の店舗では、客自身が気に入った商品があるかないか探し出すことを前提にしており、気に入ったものがなければ、店から出ればよい。またなかには、買う目的がなくお店に入ったものの、商品の魅力に惹かれて衝動買いをする客もいた。

 商店のあり方について説いた当時の本には、「商人は決して素見(すけん)客を嫌ふべからず」(『土屋長吉店前装飾術』)とか、「小売商店の繁昌不繁昌は、どれだけ交通機関の為めに左右されますか知れませぬ」(石井研堂『進歩的経営法 小売商店繁昌策』)など、それまでとは違った商売の方法が記されている。ひやかし客を大切にせよとか、交通機関によって商店の繁昌が左右されるなどの指摘は、明治以前にはみられなかったことである。

この辺は「モダン都市」(「呉服店から百貨店へ」)の記事参照。そして、

 このことは、商店が不特定の人を客として相手にしはじめたことを示している。人々の生活圏が拡大し、江戸時代から続いてきた地域完結社会が崩れはじめたのである。(中略)それまで特定の顧客だけを対象としていればよかった商店にとって、いかに多くの人々の注意を自分の店に引きつけるかが大きな課題になってきたのである。人々は、商品の購入を直接的な目的にしなくても、気軽に訪れることのできる商店の出現を望んでいたし、それに応えるかのように陳列販売方式の店舗がつくられていった。

 街のなかを動きはじめた人々の行為は、やがて「銀ブラ*17などと呼ばれ、より明確なものになっていくが、まさにこのような人々と商店の間で行われる行為を、円滑に進める仲立ちとしてショーウインドウが登場したのである。

以上。

ここから「アトム」空間(都市空間)と「ビット」空間(情報空間)の共通項を見つけることができるのかも知れないし、または、都市空間の「フリー」化の別の文脈で、「公共空間」について考えてみても良いのかも知れない。まっ、いずれにせよ、とりあえず、この本を最後まで読んでみる(「週刊ダイヤモンド」もな)。また、このような変化(「フリー」化)は、上記(アウトレットモールの記事)の「状況は変わりつつある」、「相乗効果が期待される」とどこかでつながってる気もする。*18

*1:別ブログの「雑記5」の記事も参照。別ブログの"初代"のタイトルの絵はこれ(「御殿場プレミアム・アウトレット」)だった。ちなみに、二代目はこれ(「りんくうプレミアム・アウトレット」)で、現在のは三代目。

*2:別ブログの「イオンレイクタウン」、「イオンレイクタウン-2」、「イオンレイクタウン-3」、「ノエル」3の記事参照

*3:明日の田園都市」の記事参照(「田園都市レッチワース」、松葉一清)

*4:旧ブログの「Prairie House」の記事参照(「ロンドンから鉄道で64キロ」)

*5:別ブログの「イオンレイクタウン-3」、「アルチュセール」の記事参照(「磁場」)

*6:旧ブログの「Strange Paradise」の記事参照(「無個性の快楽」、レム・コールハース

*7:旧ブログの「Natural World-3」の記事参照

*8:旧ブログの「表記-4」(「ここが「ヴォアザン計画」の場所です。パリのど真ん中です。」)、「表記-6」、「Integral Project-3」(「中心は条件づけられている。」、ル・コルビュジエ)の記事参照

*9:モリスの建築論」注釈10、別ブログの「ノエル」4の記事参照。ハワードの「田園都市」が失敗した理由は「工場の立地」にある。

*10:十九世紀の罠」、「モリスの建築論」、「明日の田園都市-2」注釈5の記事参照

*11:メモ-2」、「レッセフェールの教訓」追記、「モリスの建築論」追記の記事参照

*12:明日の田園都市-2」の記事参照

*13:別ブログの「フロリダ」の記事参照(「(本が重くて)筋肉痛になった」)

*14:週刊ダイヤモンド」は良い特集が多い。「2009年11/28号」の「百貨店、コンビニを抜いた 通販&ネット販売の魔力」(「闘うレヴィ=ストロース」の記事参照)とか「2010年2/22号(臨時増刊)」の「JR」特集(「メモ-4」、「明日の田園都市-2」注釈3の記事参照)とか。

*15:別ブログの「フロリダ」注釈8の記事参照(「情報通信が初めて便益の向上とエネルギー消費が比例しない技術」、月尾嘉男

*16:ノエル」4の記事参照(「経済の原則」)

*17:メモ-4」の記事参照(同書、第三章「銀ブラを生んだ商店街」)

*18:デフレ時代の外食産業は本当に値段の安さが重要なのか」(ダイヤモンド・オンライン、2010年3月10日)も参照(「実は新規顧客を開拓できているかどうかがカギ」)

明日の田園都市-2

(「明日の田園都市」と「メモ-4」の記事の続き)

ドタバタしております(想定の範囲外ですけどw)。えーと。さて、前回の「メモ-4」の追記で「西武有楽町店」の閉鎖について書いたのだけど、あれこれ調べてみた(←ネットでw)。

「百貨店の衰退」の理由は、「闘うレヴィ=ストロース」の記事で書いたような(別ブログの「エソラ」の記事で「ららぽーと豊洲」を例にして書いたような*1)「都市空間の(大型)専門店化が進行」していたり、旧ブログの「Integral Project-2」の記事で書いたような「百貨店の建築形態」(人間工学的な話)上の問題があったり、等々と、いくつか考えられるのだけど、それらよりも、より根本的な理由があるように思われた。

例えば、「聖域なき店舗閉鎖で問われるセブン流の百貨店経営の真価」(週刊ダイヤモンド、2010年2月1日)の記事に「(前略)西武有楽町店は、建物のオーナーが朝日新聞社などで、バブル期の契約を引きずり、賃料が高いままだ。」とあるように、「賃料」(土地所有*2)の問題が大きいように思われた。ちなみに、同じく前回の「メモ-4」の追記で、好調な「JR」グループ(「ルミネ」と「アトレ」等)について少し書いたのだけど、その本に書かれているように、「JR」の強みは、「JR」自らが膨大な土地を所有しているということである(つまり、「賃料」がない。更に、エキナカ等の“一等地”を「貸す」側でもある)。*3

また、前述のその週刊ダイヤモンドの記事に「バブル期の契約を引きずり」とあるのだけど、調べてみると、東京都心の「賃料」(地価)全体は、2008年9月に起きた「リーマン・ショック」以後、大幅に下落している(2008年2009年*4。このような「固定価格」(契約時の相場)と「変動価格」(現在の相場)のズレによって生じる諸問題は、アダム・スミスの「国富論」(1776年)以来、度々、論じられているのだけど、うーん、まっ、喉元思案ならぬ"ネット"元思案は、止めておく(w)。*5

(まっ、旧ブログの「Kinkyo-2」(2007年)の記事で、僕は「(前略)ここは典型的な「2核1モール」でおそらくこれが最終形で、郊外型ショッピングセンターでのこれ以上の進化はないだろう。」(キリッ)と書いておきながら、別ブログの「モーション・タイポグラフィ」(2008年)の記事では「(前略)「2核1モール」にも問題点はある」、そして、「イオンレイクタウン」の記事では「(前略)そこから更に、着々と進化しているのです。」(!)と、こそ〜っと微修正していた前科(?)があったりする(w)。結論を言えば、日本で「2核1モール」が成功したことは「一度もなかった」のである。つまり、日本で(「2核1モール」型の)ショッピングモールが普及した理由は、設計者の意図(計算)とはズレていた。何かがたまたま(偶然に)、ある程度(部分的に)、人々のニーズと重なっただけだった。そして、じつのところ、誰もその「真相」を知っていない。まっ、これは極論でもあるけれど、こういった世界観は、空間の「形式」に対する認識のあり方を柔らかく耕し、今世紀的な「偶然性の感覚」*6とも共鳴する。)

さて、前回の「メモ-4」の記事で、エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)に関する「話のテーマ」として(1)〜(5)を挙げたのだけど、ぼちぼち書き始める。まっ、と言っても、書く中身は既に決まっていて、あとは自動機械のように、さくさく文章化すればいいだけなのだけど、こうした作業のモチベーションをどうやって保てられるのかが、イマイチ分からない(ワラ)。この辺がいかにも「ブログ」的というか、いわゆる「仕事」全般と大きく異なる点である。

とりあえず一応、(いつものように)結論を先に書いておく、というか、ブログに引用する予定の「参考文献」を先に挙げておくと、(1)と(4)はエベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)、(2)は「atプラス 02」(2009年)の柄谷行人の連載「『世界共和国へ』に関するノート」の「社会主義と協同組合」、(3)は相田武文+土屋和男著「都市デザインの系譜」(1996年)*7の第7章「ハワード」の「近代の目覚め」で、(5)は前回の「メモ-4」の記事の追記2に、ほぼ書いた(済)。

(ここまで昨日書いた。)

では、(1)の「エベネザー・ハワードは19世紀末〜20世紀初頭の「ポストモダンな状況」に対しては、どのようなスタンスに立ったのか」について。

エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)の「著者の序論」(P.71)より。(前々回の「明日の田園都市」の記事で引用した部分のすぐ後)

(前略)しかし、それに関しては、見解の相違をほとんど発見できない問題もある。すでに過密になっている諸都市に、人口の流入が引き続き、農村地域がさらにからになってしまうことが、深刻に憂慮すべきだということは、すべての党派の人が、イギリスばかりでなくヨーロッパやアメリカとわれわれの植民地においても、まったく一様に同意していることである。

以上です。そして、この先は延々と「田園都市」の経済(経営)について論じられている。それと、前に別ブログの「クルーグマン」の記事にも書いたのだけど、この本の特徴は「引用」の多さである。哲学者、経済学者、社会学者、評論家、小説家、詩人、科学者、技術者、政治家、等々の文章が引用されている。具体的には、アルフレッド・マーシャルハーバート・スペンサージョン・ラスキンヴィクトル・ユーゴーチャールズ・ディケンズチャールズ・ダーウィンレフ・トルストイジョン・スチュアート・ミルヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ヘンリー・ジョージ*8ジョージ・スチーブンソン、等々である。

そして、同書終盤の第11章「続く道」では、ハワードは(上記と同様に)このように述べている(P.214-216)。

(前略)おおまかにいえば、産業改革者は二つの陣営に分けられるであろう。

第一の陣営は生産の増大の必要性に、つねに深い関心を向けることに重要性をおく人たちである。第二の陣営は、より正しくより平等な分配を目標とする人たちである。(中略)前者はだいたい個人主義的タイプであり、後者はだいたい社会主義的タイプである。

前者の見解の一例として、わたしは一八九四年一一月一四日、サンダーランドで開かれた<保守協会連合会議>でのべたA.J.バルフォア氏の言葉を引用したい。かれはつぎのようにいう。

「社会が、総生産の分け前に関して、対立する二つの部分から成りたっているかのように説明する人たちは、この大きな社会問題の真の意味をまったくとり違えている。(中略)この国の労働階級に関する真の問題は、第一義的にも根本的にも分配の問題ではなく、生産の問題である。」

第二番目の見解の例としては、つぎのことばをとりあげよう。

「貧乏人を引きあげるだけ、金持を引きさげないでも、できるという考えの馬鹿さ加減にあきれている。」*9

今の日本の状況によく似ている(w)。上記の大文字は原文傍点です。そして、

わたしは、<個人主義者>と<社会主義者>の両者が、早晩かならずたどらなければならぬ道があることを示したが、さらにこの論点を明確にしたい。わたしはつぎのことを十二分に明らかにしてきた。もし<個人主義>の意味する社会が、その構成員が自分の好むところを行い、好むものを生産し、多種多様の自由な結社を結成する十二分の自由の機会があるものであるならば、小規模の社会では、社会はいまよりなお一層個人主義的になるであろう。もし<社会主義>が意味する生活上代が、そのなかでコミュニティの繁栄が守られ、自治体の努力の範囲を広く拡張することによって、集団精神が明らかにされるものであるならば、社会はまたなお一層社会主義的になるであろう。

これらの望ましい目的を達成するために、わたしは、それぞれタイプの異なる改革者の著述の例にならい、それらを実用性という糸で綴じたのである。

(中略)それは、悪感情や争いや苦痛を惹きおこすことなく、合憲性を有し、革命的立法を必要とせず、既得権に直接の攻撃を加えることのない方法で容易にできるのである。このようにして、わたしが言及した二派の改革者の願望が達成されるのである。

以上です。

ポイントは「実用性という糸で綴じた」というところです。大まかに言えば、ハワードはイギリスのいわゆる「プラグマティズム」(時系列的には「保守」思想)の伝統の中にあるのだけど、今日のポストモダン社会においては、これを、ジョン・ロールズ(後期ロールズ)の「重なり合う合意」*10に読み替えても良いのかも知れない。

と言うのも、ハワードはとても「道徳」的で、この本は「良きイギリス人」へ向けて書かれているからです。これを少し言い換えると、ハワードの「田園都市」の都市モデルは、「良きイギリス人」を(そこに暮らす)人間像においている。その一方、前回の「メモ-4」の記事で、経済学者の小島寛之の「魅力的な都市とは〜ジェイコブスの四原則」(WIRED VISION、2008年1月24日)へのリンクを貼ったのだけど、その記事には、経済学者の間宮陽介が「コルビジェが想定する人間は、(中略)生物学的な意味での人間である」と言ったと書かれている。これは、「メモ」の記事で引用したレヴィ=ストロースの「「生物としての」人間の定義である」という意味ではその通りかも知れないけれど、実際のところ、ル・コルビュジエが想定した人間は(合理的な)「近代人」である。

つまり、以前書いた「ギリシャ型とローマ型」の記事では、ハワードの「田園都市」とル・コルビュジエの「300万人のための現代都市」を対比しているのだけど、より根本的なところで、両者はもっと異なっているのである。一方、僕がいま考え中の「理想都市」で想定している人間は、前に「メモ」の記事でも少し書いたのだけど、「ポストモダン人」である。それは、都市経済学者のリチャード・フロリダが、著書「クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭」(2008年)で描いたような人々のことである(別ブログの「フロリダ」の記事参照)。いずれにせよ、ハワードの「田園都市」と「良きイギリス人」、ル・コルビュジエの「300万人のための現代都市」と「近代人」、そして僕がいま考え中の「理想都市」と「ポストモダン人」という構図は僕自身に簡明な方向性を与えている。きっと。

以上です。

(うーん、当初予定していた内容と違うことを書いてしまった(ワラ)。「自動機械」にはなれないらしい。まっ、いいか(w)。一応、予定していた内容は(上記のポイントの)「実用性という糸で綴じた」ということについてデス。今度書く。きっと。)

明日の田園都市-3」に続く。

*1:別ブログの「エソラ」の記事では、「(前略)2006年にオープンした「アーバンドック ららぽーと豊洲」は、「カテゴリーキラー」の集積によるショッピングモールとして(業界で)知られてます。つまり、ここには「核店舗」がないのです。」と書いた。ちなみに、2006年について、評論家の宇野常寛は、「思想地図vol.4 特集・想像力」(2009年)の座談会「物語とアニメーションの未来」で、「(前略)希望が持てるのは『らき☆すた』あるいは『コードギアス 反逆のルルーシュ』(〇六年テレビ放送)の路線ですよ。それは、もう表現自体が崩壊してしまっていることを受け止めて、強力な断片自体を何の統一もなく混在させているという作品です。(中略)複数の断片が混在する世界を描いているという点では共通しているわけです。」と述べている。「メモ-2」注釈8の記事参照(宇野常寛

*2:メモ-3」注釈2の記事参照(「土地所有」)

*3:「JR各社が所有する土地は膨大だ。(中略)全上場企業が保有する土地の簿価ベースのランキングで(中略)そうそうたる企業を抑えて一位にJR東海、二位にJR東日本、一一位にJR西日本が入る。(中略)また、保有する土地の面積では、他の企業をさらに引き離す(中略)。東京電力の面積が大きいように見えるが、(中略)“利用可能土地面積”では、JRが日本一である。(中略)民営化して二〇年余、JRはこれまでにさまざまな手法で、鉄道用地を収益を生み出す不動産につくり変えてきた。(かなり中略)こうした手法で生み出された土地やスペースは、駅直結、駅近といった“お宝不動産”になる。そこでホテル、百貨店、エキナカ、不動産賃貸、マンション分譲と鉄道輸送以外の事業を年々拡大させてきたのである。」(「週刊ダイヤモンド 臨時増刊 THIS IS JR 2010年 2/22号」(2010年)、P.40-42)。ちなみに、2011年に「大阪駅開発プロジェクト」と「新博多駅ビル開発プロジェクト」、2012年に「南新宿ビル(仮称)」、2016年に「新宿駅新南口開発ビル(仮称)」、2017年に「名古屋駅新ビル計画」が竣工(完成)する。

*4:香港を抜いてトップに!東京の賃貸オフィスは世界最高額の賃料!」(ロケットニュース24、2010年2月24日)も参照

*5:話は飛ぶけれど、土肥誠著「30分でわかるマルクスの資本論」(2010年)によると、「(前略)では、資本家はどうやって生まれたのでしょう。マルクスはまず、農村民から土地を奪った者は、大土地所有者になるのであって、資本家とは違うことを指摘します。大土地所有者から土地を借りて大規模な農業経営を始めた農業資本家が登場して、土地所有者―借地農業者―農業労働者という関係が生まれます。借地農業者は自分の資本を賃労働者の使用によって増殖させ、剰余生産物の一部分を貨幣や現物で、大土地所有者に地代として支払います。この農業経営者が資本家として富を形成したのです。借地農業者が資本家となったのは、「農業革命」と「貨幣の減価」だとしています。」(P.186)で、この「貨幣の減価」とは、「16世紀に貴金属の価値=貨幣の価値が低落したことで労賃も低下し、労賃の一部が借地農業利潤に加えられた。さらに当時は借地契約が長期だったため、支払わなければならない地代は旧来の貨幣価値で契約されていたので、労働者と土地所有者の両方から富を得た。」(P.187)。「十九世紀の罠」、「モリスの建築論」の記事参照(マルクス)。また、小島寛之著「使える!経済学の考え方―みんなをより幸せにするための論理」(2009年)によると、「インド生まれのセンは、1943年にベンガル州で発生した大飢饉の時期、この地で子供時代を過ごした。この大飢饉の犠牲者は、推定で300万人という信じられない数に及ぶ。この飢饉の光景が、その後のセンの研究に大きな影響と方向性を与えた、と言われている。(中略)このような信じられない飢饉の原因は、公式の発表では、「コメの不作」とされている。しかしセンは、これは誤りであると主張する。実際、飢饉の起きた1943年およびその前年1942年の米の生産量は、(中略)十分な供給量があったのである。そこでセンが注目したのは、1943年に生じたインフレーション(物価高騰)である。(中略)問題は、このインフレがあらゆるものに比例的に働いたのではなく、おおきなムラがあった、ということだった。農村部の非熟練労働者の賃金と米の交換比率(相対価格)は、1941年を100としたとき、1943年1月には70、3月には44、5月には24、という具合に急落した(米が高くなった)のである。(中略)農村部の賃金の上昇率は、米の価格の上昇率に比べて、あまりにも緩慢だったため、同じ賃金で買える米の量が激減していった、ということなのである。(中略)つまり、この前代未聞の飢饉は、豊富な食料のある中で、市場取引という経済システムが原因で引き起こされた、ということをセンは論証したのであった。このベンガル大飢饉が、センを経済学に向かわせたばかりでなく、既存の市場原理至上主義的な経済学への彼の挑戦的な態度を植え付けた、と考えられる。」(P.97-99)。「闘うレヴィ=ストロース」、「メモ-4」の記事参照(小島寛之)。あと、「H&Mモデル」の記事参照(「イケアは(中略)「不動産市況に収益を左右されたくない」と店舗は原則、郊外に取得した自社の土地の上に開く。」)

*6:メモ-2」注釈10の記事参照

*7:コーリン・ロウ」(第14章)、「コーリン・ロウ-2」、「コーリン・ロウ-3」、「モリスの建築論」(第6章)の記事参照

*8:メモ-3」注釈2の記事参照

*9:フランク・フェアマン著「簡明社会主義原理」(1888年

*10:「(前略)ロールズの八五年の論文「公正としての正義:形而上学的ではなく政治的な」(中略)は後期ロールズを前期と分かつ分岐点としてしばしば言及される。この論文でのロールズの議論の特徴を簡単に言うと、「公正としての正義」の原理について合意するのに、道徳的な信念を共有する必要はないことを強調している、ということになるだろう。(かなり中略)「寛容 toleration」の原理を、哲学それ自体にも適用する、というのである。(中略)人々の間で、基本的な価値観や世界観、真理に対する信念などが違っており、そのため考え方の筋道が違っていても、結果的に望ましい社会的秩序について大体同じようなイメージを抱いていれば、取りあえず、その重なり合っている部分に限って、合意を成立させておけばいい。ロールズ自身はそれを「重なり合う合意 overlapping consensus」と呼んでいる。」(仲正昌樹著「集中講義!アメリカ現代思想―リベラリズムの冒険」(2008年)、P.201-203)。「コーリン・ロウ-3」追記、「メモ-2」の記事参照(仲正昌樹