社会的な身体

荻上チキ著「社会的な身体〜振る舞い・運動・お笑い・ゲーム」(2009年)より。

別ブログの「雑記6」の記事で書いた、「情報空間固有の挙動」について、少し知っておこうと思って買った。まだ半分くらいまでしか読んでないけど、とりあえず、メモる。

第1章「有害メディア論の歴史と社会的身体の構築」

(前略)メディアは人々の欲望を叶えるため、社会に登場し、定着していく。単に「もともとあった欲望」を満たすためだけではなく、新たな欲望を植え付け、発展させていく。個人の振る舞いを変えると同時に、社会が個人に期待するもの、個人が他者と世界に期待するものも変えていく。

(中略)比喩的に言えば私たちの身体は、メディアを通じて新しい「身体能力」を獲得していくかのようだ。(中略)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ、社会制度を変容させるといった形で、メディアは「社会的身体」のあり方を解体/構築していくのだ。

 社会的身体とは、生物としての身体そのものではなく、社会的に構築された、個人の身体に対するイメージのことだ。人は、道具を使い、環境に適応すると同時に、環境そのものを変容させる。人の生物的身体は、そう簡単には変えることができないが、メディアを通じて形作られる社会的身体は、わずか短い期間の間に、その姿をがらりと変えていく。

第2章「社会的身体の現在―大きなメディアと小さなメディア

(前略)テレビは相変わらず、多くのアテンションを集めているし、その存在感は無視することはできない。これから世界中のテレビ局が次々となくなり、膨大なサーバーだけが残るということは考えにくいだろう。だから、私たちは次のように言うべきだ。「私たちはテレビを求め、次に、ウェブを求めた」のではなく、「私たちはテレビを求め、加えて、ウェブを求めた」のだ、と。

(中略)雑誌文化圏の縮小の裏で、ケータイ・ウェブとテレビ空間は、相互補完的な役割を担うようになった。ケータイ・ウェブでのコミュニケーションの参照項としてのテレビ、そしてテレビの補完物としてのケータイ・ウェブ空間といったように。テレビが、親密圏同士の間にリアリティをシェアするための「共像空間」を作り上げ、匿名サービスや顕名サービスを用いて、テレビによって築かれた「共像」*1を、コミュニカティブに調整しあっている。

 現在は、新聞の時代でも、テレビの時代でも、雑誌の時代でもないが、それはケータイの時代、ウェブの時代になったことを直ちに意味しない。それらのメディアが同時に顔を並べる社会で、いまや複数の身体がうごめく、秩序の群生状態があからさまになっているのである。

ノート「『情報思想』の更新のために」

「情報思想」について議論する場では、次のような「物語」が一定の効力を持っている。情報技術の発達等により、この社会は「規律訓練型」の(権力を求める)社会から「環境管理型」の(権力を求める)社会に変化した。そうした「新しい社会」では、「アーキテクチャ」、すなわち社会的に埋め込まれた様々な「コード」の「設計」如何(いかん)によって、人々を特定の仕方へとコントロールする匿名的な権力が肥大化しうる一方、「人間らしさ」の概念が変容し、コミュニケーション能力が要求される領域は縮減しつつある。そこでは人々が「人間らしく」振る舞わなくても、相応に社会が駆動することが期待されるようになり、実際人々は「思考」をシステムに委ね、ますますエコーチャンバー(社会認識の言説の棲み分けの徹底)に閉じこもるようになっている――。

上記の「物語」は、別ブログの「雑記6」の記事の注釈5で引用した、鈴木謙介著「サブカル・ニッポンの新自由主義」(2008年)とほぼ同じ内容である。

しかし、

 こうした、ニューレフトと消費社会との結婚がもたらしたポストモダニズム調の理解が大きな示唆を与えてくれるのは事実だが、多くの現実を捨象してしまうのも確かだ。実際に起こっていることは、(例えば新聞・テレビ・雑誌からケータイ・ウェブへ、ではなかったように)「規律から管理へ」といった単線的な変化ではなく、「規律も管理も」あるいは「コミュニケーションもアーキテクチャも」といった、複合的な選択の絡み合いだからだ。

と、著者は述べている。この本(の前半)のポイントは、まさにこれである。

そして次に、「『形式/内容』という区別は便宜的なものであり、両者は不可分なものだ」といった話を著者は展開するのだけど、これは(僕は)運良く、レヴィ=ストロース構造主義)の本*2を読んだばかりだったので、すんなり理解した(たぶん)。

とりあえず、ポイントは上記のとおりです。

(続く) →「社会的な身体-2

(追記。前々回に書いた、「環境のイメージ」の記事の続きは、忘れてはいない。。ただ、情報空間と都市空間を「交叉」させる可能性をちょっと探っている。例えば、コンビニは「ケータイ」的、ジャスコ等のショッピングモールは「パソコン」的*3、駅前の百貨店や商店街は「テレビ」的とか。かなり強引か。異論は認めない(笑))

*1:たとえば、「大統領が凶弾で倒れたとき、東西を分けていた壁が壊されたとき、世界貿易センタービルが崩壊したとき、世界中がそのシーンを反復的に見つめていたことは、世界に『公共的な空間』を用意したか。テレビそのものは、議論を深め、公共へ向かう討議を加速させるというよりは、特定のイメージ(シーン)を共有するために用いられる。(中略)人々は大きな事件の報道を、たとえ同じ内容しか繰り返していないと知っていても、他のチャンネルでどう扱われているかを確認し、目に焼き付ける。そうした場面を受容し、その目に焼き付け、他者もそうであることを確認するかのように『話題』にすること。すなわち、社会や時代を区分する強固なアイコンを作り出すことが、テレビの社会的な機能だ」(同章より)。「アイコン」については、別ブログの「モーション・タイポグラフィ」と「イオンレイクタウン」の記事参照

*2:渡辺公三著「レヴィ=ストロース―構造 (現代思想の冒険者たち) 」(1996年)

*3:旧ブログ(babyism)の「Guide to Shopping」の記事参照(「まるでネット上のHPのトップページのようにテナントが並んでいる空間」)