城の暮らしの日常

(「中世ヨーロッパの城と塔」の続き)

第3章「城の暮らしの日常」

 中世の城は、その中心である大広間にはじまり、私的な居室、礼拝堂*1、「クール」*2、大階段、「ギャラリー」*3にいたるまで、なによりもまず領主の住居であり、領主が日常生活を営む場所であった。

(中略)城の暮らしは、戦争よりも平和な時間のほうがはるかに長かった。(中略)城は戦争の際に使われる砦としての役割よりも、むしろ、というより本来、平時の行政の中心地として大きな役割をはたしていたのである。

(中略)すでに封建制の初期のころから、城のなかに君主が食事をとり、裁判を行い、会議を開く大広間が存在した。(中略)大広間はまさしく君主たちの生活の場であり、行政や司法の中心であると同時に、人をもてなす空間でもあった。夕食が終わると、大広間には大勢の来客が集まり、(中略)雑居状態で夜を過ごした。


(「ポワティエ城」の大広間の写真、外観ポワティエ

 一般的にいっても、社会的地位が高い人物の建設する城は、大広間の面積を広げる傾向にあった。軍事的機能としての城は垂直方向への広がりが重視されたが、日常的機能としての城は水平方向への広がりを必要としたのである。

(中略)さまざまな機能をあわせもつ大広間は、固定されたひとつの役割をもった空間ではなかった。毎日くりかえされるさまざまな場面に応じて、その時間ごとに、あるいは儀式の内容によって、台や板、わら布団、ベッドの脚などがもちこまれては、部屋の外観が整えられた。

(中略)12世紀の中頃、(中略)大広間の隣に、地下室をもつ住居が入った独立した建物を建てさせた。この住居には豪華に装飾された大きな控えの間と、領主が寝るためのプライベートなスペースがあった。つまり、領主は依然としてその地位にふさわしい大広間を所有する必要があったが、同時に、雑居状態で夜を過ごす習慣をやめ、独立した寝室をもつ必要が出てきたのである。

(中略)その後数世紀にわたって、領主のプライベートな居住スペースはどんどん進化していった。そして領主の社会的地位があがるにしたがって、応接室や衣裳部屋など、儀礼に関するスペースも増え、住居は複雑化していった。

 14世紀と15世紀には、休息のための小部屋や書斎など、寝室に付随する部屋が増えていった。それと同時に、領主の部屋、妻の部屋、子どもたちの部屋が別々に配置されるようになった。

(以上)

まっ、今日のいわゆる「nLDK」タイプの住居のルーツのひとつかな。西欧から日本にも輸入されて、ほとんど定着したタイプの。いずれにせよ、「大広間」から複雑化して「nLDK」へ至ったという見方は興味深い。

(平面図の例) 1.大広間 2.屋根のある外側のギャラリー 3.応接室 4.寝室 5.衣裳部屋 6.トイレ

*1:「一般的には、礼拝堂は大広間に連結し、大広間の必要不可欠な付属空間となっていた」、「城の礼拝堂は、領主社会の生活規範と慣行を、キリスト教の宗教儀式になじませる仕掛けだった」、「礼拝堂は、大広間とならんで、城の暮らしを作る重要な施設だった」

*2:各種建物のあいだに位置する空きスペース、中庭、「ほんらい来客を迎えるスペースだが、建物が増えていって、城館の内部に位置するようにもなった」

*3:「パリの王宮の『商人たちのギャラリー』は、大広間を礼拝堂につなぐ通路だった。(中略)かならずしも城館の必要部分ではない。(中略)通行する空間であった『ギャラリー』が領主みずからくつろぎ、客人をもてなす小を張り出していく。この『ギャラリー』の成長は、城の暮らしと日常を構成する部屋や日用品の増殖現象とリズムを同じくしていたのである」