ヴィラ・コルナーロ

パラーディオのプラン(左右対称の平面図)みても、いまいち分からねぇ、という人が納得する(?)話w。

ヴィトルト・リプチンスキ著「完璧な家」(2005年)第五章「ポルティコ」より。

 (前略)案内人はここが寝室、ここは居間で、こちらは食堂などと言うが、パラーディオはそのような用語は使わなかった。彼がきちんと名前をあげているのは実用的な部屋だけである。ワインの樽や食料品などをしまうところはカンティーナ〔貯蔵室〕、食べものを用意するのはクチーナ〔台所〕で、運ぶのはディスペンサと呼ぶ配膳室〔パントリー〕からで、召使いたちが集まって食事する部屋はティネッロ〔食事部屋〕と呼ばれた。しかし主要階の大事な部屋については、広間(サーラ)の他は、単にカーメラあるいはスタンツァ〔いずれも部屋をさす言葉〕と呼ぶだけで、前室はアンティカーメラ、主な部屋の背後に位置する部屋はポストカーメラと呼ばれた。パラーディオはこれらの諸室に用途別の呼称を与えていないが、それは十六世紀のヴィラやパラッツォでは部屋にはあらかじめ決められた用途はなかったからである。

ええっ?

 人々は家の中のどこででも寝たり食事したりした。正式の宴会などは広間(サーラ)で行われたが、普段の食事は自室でとることが多く、そこにはあたかも現代のホテルの部屋のようにベッドだけでなく、服を入れる戸棚や箪笥、テーブル、椅子、長椅子などが並べられていた。たいていの部屋にはいくつものベッドが置かれ、子供たちは両親と同じ部屋で眠り、客同士も同室することが多かった。プライヴァシーの基準はもちろん現代と異なっていた。そのことは十六世紀の家の中には廊下がなく、人々は平然と部屋を横切って別の部屋へ行き来していたことからもわかる。ただ家の当主だけは私室をもつことが当然とされ、パラーディオはそれをストゥディオーロ、すなわち書斎と呼んでいるが、そこにはお金、書類、貴重品、それに書籍などが保管された。そのような小さな部屋はスタンツァ・ピッコラ――小さな部屋――とも呼ばれたが、それらは建物が完成したあとで一つの部屋を仕切って創られることが多かった。

 家具にあたるイタリア語はモビリアで、家具は部屋から部屋へと動かして使うものであった。パラーディオが平面図にテーブルや椅子を描き込んでいないのもそのためである(中略)。部屋の使い方は季節によって変わることが多く、北向きの部屋は夏に、南向きの部屋は冬に用いられた。部屋の装飾品のうち、タペストリー〔壁掛け〕、イーゼル〔画架〕に載せた絵画、蝋台、といったものは家具と同様に持ち運びができた。十六世紀の家具には折り畳み式のものや分解できるものが多いが、それは家具も家から家へと移動するものであったからである。家族全員をヴェネツィアからピオンビーノ*1へと移動させるときには、寝台の骨組みやリネン類、それに食卓で使う銀器なども彼らと道中をともにした。

(中略)ル・コルビュジエはかつて近代住居を評して「住むための機械」と言ったが、ヴィラ・コルナーロはとてもそのようなものではない。そこはジョルジョ*2と家族が特権的な生活を営む優雅な舞台装置であった。そこには華やかさはあったが、快適さというものは基本的に近代になって出てきた基準である。大、中、小の脇部屋のうち大と小の部屋には暖炉があるが、中の部屋と広間(サーラ)には暖炉施設はない。優美な楕円形の階段室の入り口はロッジアにしか開いていないので、上の階に行こうとすれば、外気に触れざるをえない。水道施設はないので、召使いたちは風呂用のお湯を台所から上の部屋まで運んだ。便所は外にしかなく、かわりに室内用の溲瓶(しびん)が使われた。(後略)

これは勉強になった。

でも、部屋に「あらかじめ決められた用途」のない住居は、とてもフリーダム(自由)に思える。*3

(ヴィラ・コルナーロの平面図)

*1:ヴェチェンツァの東、ヴィラ・コルナーロ(Villa Cornaro)のある大きな村落

*2:施主のジョルジョ・コルナーロ、若いヴィネツィアの貴族

*3:城の暮らしの日常」の記事参照