環境のイメージ

(「ロサンゼルス」の続き)

ケヴィン・リンチ著「都市のイメージ」第1章「環境のイメージ」(1960年)より。

 往々にして、都市に対するわれわれの感じ方は、一様ではなくて、部分的であり、断片的であり、その他いろいろの関心事とまぜこぜになっている。そこにはすべての感覚が活動しており、イメージとはそれらすべてが合成されたものである。

(中略)この本では、アメリカの市民が彼らの都市に対して心に描いているイメージを調べることによって、アメリカ都市の視覚的な物質について考えてみよう。

「わかりやすさ(Legibility)」

 この本は、わかりやすさということが都市環境にとって決定的な重要性を持つと主張し、それをやや詳細に分析し、この概念が今日われわれの都市を改造するのにどのように応用されるかを示そうとしている。
(中略)明瞭さとわかりやすさは、決して美しい都市のためのただひとつの重要な特性ではないが、学問、時間、空間、複雑さの点で都市のスケールを持つ環境について考える場合に、それは特に重要である。このことを理解するためには、われわれは、都市をものそれ自体としてばかりでなく、そこに住む人々によって感じとられるものとして考えてみなければならない。

ところで、都市に「わかりやすさ」がなぜ必要なのかの説明で、ケヴィン・リンチはやや苦慮しているようにも思える。都市を(構造)分析することと、都市を改造することの話が混線していて、あくまで個人的な感想ではあるけど、その後者のほう(第4章で説明されている)は、あまりうまく行っていないような気がしなくもない。でも、そこで苦慮しているという姿勢そのものが重要であるのかも。*1

 鮮明なイメージは、人間の行動をなめらかにし、すみやかにするにちがいない。

(中略)マンハッタンの構造を理解している人は、われわれの住むこの世界の本質についてのおびただしい量の事実や空想を整理することができるだろう。すぐれた枠組 framework なら何でもそうだが、このような構造は、個々の人間に選択の可能性とさらに広く情報を獲得するための出発点を与える。したがって、周囲に対する鮮明なイメージは、各個人の成長にとっての有益な基礎になるのである。

このことは、この本ではないのだけど、ケヴィン・リンチの別の調査(思い出せないw)で、別の視点から分析がされている(ケヴィン・リンチの本は入手しづらいのが難点)。思い出したら書く。また、「選択の可能性とさらに広く情報を獲得するための出発点を与える」の一文は、「ポストモダン社会」の行方と合致している、とも言える。*2

そして、

 すぐれた環境のイメージは、その所有者に情緒の安定という大切な感覚をもたらす。

この理由の説明で、ケヴィン・リンチは「人類学」を用いている。ゆえに、同書「付録A」に、これの長い解説を加えている。ちなみに、社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロース*3は、「感性の領域を理性の領域に、前者の特性を少しも損うことなしに統合することを企てる」という志向を、生涯に渡って持ち続けていた、と言われている。*4

うーん、少し飛ぶけど、第4章「都市の形態」で、ケヴィン・リンチはこう述べている。

 都市は、技術によって人間の目的のために作られるという最もよい意味における人工の世界でなければならない。環境に適応し、感覚にふれるものを何でも識別し、それらを組み立てるのは、われわれの古代からの習慣である。われわれが生き残り優勢を保っているのはこの感覚的な適応性のおかげであるが、いまや、われわれは、この相互作用の新たな局面へ進んでもよいのだ。環境そのものを人間の知覚パターンと象徴的な過程に適応させることを、まずわれわれのホームグラウンドで開始してみよう。

…飛ばしすぎた、かもなw。

(続く) →「都市のエレメント」(←ぼちぼちとな

(6月25日追加。「環境のイメージ-2」の記事を追加)

*1:上記の「あまりうまく行っていないような」感は、ケヴィン・リンチの弟子のクリストファー・アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」(1977年)や「まちづくりの新しい理論」(1987年)にも漂う、奇妙ではあるけど。でも、この奇妙さがモダンとポストモダンを切り分けているようにも思える。別ブログの「ノエル」5の記事参照

*2:旧ブログの「Integral Project-3」の記事参照(「選択肢」について)

*3:本ブログの「悲しき熱帯II」以降の記事参照

*4:渡辺公三著「レヴィ=ストロース―構造 (現代思想の冒険者たち) 」(1996年)