ロサンゼルス

(「ジャージーシティ」の続き)

ケヴィン・リンチ著「都市のイメージ」第2章「3つの都市」(1960年)より。

まず、「ロサンゼルス」は*1、「都市地域の分散化」が進んでいて、「ダウンタウン以外にもいくつかの中心がある」、「他の多くのアメリカ都市の中心部と区別する」のは難しい、「単調なオフィスの建物が並び、いたるところに同じような道路や駐車場がある」等と語られる。

そして、前記事の「ジャージーシティ」と同様、ここでも(面接)調査が行われる。

 ロサンゼルスという都市を統括して描写あるいは表現するように頼むと、被験者たちは “広がりきった” “広々とした” “形がはっきりしない” “中心になるものがない” などきまりきった言葉を用いていた。ロサンゼルスは、全体として頭の中に描いたり、概念化したりするのがむずかしい都市であるらしい。どこまでも限りなく続く広いところというのがだれにも共通のイメージであったが、それには、住居の周囲に空間が多くて楽しいという意味から、退屈だとか適応しにくいといった意味も含まれていたようである。ある被面接者はこう言った。

「ある所に向かってかなり長いこと歩きつづけて行ったのに、いざそこへ着いてみると、そこには結局なにもないことがわかった――そんな感じがするところです。」

(中略)自宅から勤務先までの道筋を説明するという面接の問題において、ほとんどどの人の場合にも、その説明が下町に近づくにつれて、印象の鮮明さが急速に減少してゆく傾向がみられた。居住地に近いところでは、坂や曲がりかど、植物や人間などについてくわしく説明があり、こうした状景に日常の関心を抱き、喜びを感じていることが立証されていた。だが中心部に近づくにつれ、このイメージは次第にぼやけて、もっと抽象的かつ概念的なものとなってしまう。

(中略)ロサンゼルス中心部のイメージには、ボストン中心部のそれには存在していたひと目でわかる性格とか安定感とかこころよい意味などが欠けているようであった。

実際、「分散化」が進んでいるこの都市では、「中心部は繁華な商店街を含むが、それはもはや最上の場所ではなく、多くの市民は年に1回もこの地域に足を踏みいれないのである」。いわゆる、(専門用語?で言うと)「ドーナツ化現象」である。

更に、

 ロサンゼルスでは、われわれは、環境の流動性と過去のなごりをとどめる物理的エレメントの不在とが人々を刺激し不安にしているという印象を受ける。ここで生まれて住みついている人々による景色の描写の多くは、老若を問わず、以前あったものの亡霊につきまとわれていた。いろいろな変化、たとえばフリーウェイの出現によってもたらされたような変化は、精神的なイメージにもその傷痕を残している。面接担当者は次のように語っている。

「土着の人たちは、苦痛または郷愁を感じているように思えた。これは変化が多いことに対する怒り、またはそうした速い変化に追いついていけないという無力感を表しているものと考えられる。」*2

(続く) →「環境のイメージ

*1:旧ブログの「Edge City」の記事参照(「ロサンゼルス」の歴史)

*2:別ブログの「雑記5」の記事で、この本は、「ミスチルMr.Children)の8月13日「柏マイ・ラブ」で書いた「ランニングハイ」の歌詞や12月28日「ノエル」2で書いた「東京」の歌詞と、そして、地元の柏市(「ファスト風土」)と関連付けられる気はしている」と書いたのは、基本的にはこのこと