コーリン・ロウ

前回の「ギリシャ型とローマ型」の記事で書いた、コーリン・ロウの「コラージュ・シティ」(1978年)を買って読んだ。

嘘です(w)。

とりあえず、手元にある本で、概略だけ。

相田武文、土屋和男著「都市デザインの系譜」(1996年)、第14章「ロウ」より。

(前略)コーリン・ロウは建築および都市に関する理論家で、一九七八年にフレッド・コッターとの共著で『コラージュ・シティ』を上梓している。この著作の最終部には「暗喩としてのユートピア*1そして処方箋としてのコラージュ・シティ」という一文がある。これはどのようなことなのか、それを理解することをここでの目的としたい。

近代建築とユートピアの問題

 ロウはアメリカのコーネル大学などで教鞭をとったが、その著作の論調は博学才名であると同時に諧謔に満ちている。あらゆる批判的要因を念頭におき、それに対する返答を用意してから意見を言う態度は、精緻ではあるがくねくねと曲がる街路をたどってついに構築的な広場に出る体験に似ている。(中略)性急な読者にはペダンティックで苛立たしい印象を与えることもあろう。しかしそのような印象を欠点としても、批評する対象を選ぶユニークさはそれを補って余りある。これはル・コルビュジエとパラーディオ*2に同一性を見いだす論文『理想的ヴィラの数学』などでよく知られるところである。

ちなみに、僕はヴィトルト・リプチンスキ著「完璧な家」と一緒に、コーリン・ロウ著「イタリア十六世紀の建築」を買っている、まだ読んでいないけどな(w)。

 さて、『コラージュ・シティ』が書かれた状況は、冒頭部で述べられる、「近代建築による都市(近代都市と呼んでもよいが)はいまだに建設されていない」という一文が端的に表現している。

 一九世紀末頃より近代建築による都市のプロジェクトがさまざま発表されたが、それらが本気で夢見られていたのは高々一九二〇年代までであった。それ以降、部分的に実現が試みられはしたが、いずれも満足いく結果とは言えず、少なくとも欧米においては、伝統的な都市のほうが魅力的かもしれないと広く言われるようになった。とはいえ、新しく考えるべき都市に、長い時間に裏づけられたイタリアの諸都市のようなものを形態だけ真似ても、ディズニー・ワールドもどき*3ができるばかりである。

 状況は、近代建築による都市が問題視されながら、それに代わるものがないというところにある。ロウらは、近代建築に深い理解を寄せながら、伝統的な都市との比較を次々と行い、どちらも共存させる道を選ぼうとする。この、二者択一ではなく、どちらもという考え方をとるとき、そうした考えを含みうるのは多様性*4によって裏づけられた都市、特にローマ*5を典型とするような、幾世紀にもわたる発展と衰退をくり返す時間的な多様性を含む都市にならざるをえない。

 近代都市に欠けている視点は、歴史の連続性に対する配慮であり、実現までは進歩が盲目的に信じられるにもかかわらず、実現してしまうとそこから先の時間が切れてしまうことにある。これはまさにユートピアの欠点にほかならない。近代都市のこの欠点を打開すべく、例えばメタボリズム*6が唱えられた。しかしこれは上部構造の変化には対応するが、システムとしての都市構造は相変わらず絶対的に信頼されている。スーパースタジオ*7の示したヴィジョンは、この事態をアイロニカルに表現したものだ。

 これらの問題の所在は、進歩という観念、すなわち時間は前にしか進まない(時間の線形不可逆性)という思い込みにあるとロウらはみる。ならば時間の概念を変えるとはどのようなことか*8。可逆的な時間はいかに考えられるか。こうして「記憶」というキーワードが浮かび上がってくるわけである。だが彼らはそうした時間の考察に至るまでに、都市の空間的な、主に平面的な比較を、ヨーロッパの伝統的な都市と近代都市とについて行う。そこでの話題の中心が、図と地である。

(続く) →「コーリン・ロウ-2

ちなみに、この本では、「都市デザインに有効な示唆を含んでいる」と思われる15人に、各章が割り当てられている。その15人とは、時代順に、ペリクレスカエサル、ブルネレスキ、シクストゥス五世、ルイ十四世、オースマン、ハワード、ガルニエ、ル・コルビュジエ、ロックフェラー・ジュニア、リンチ、ヴェンチューリ、アレグザンダー、ロウ、チュミ。*9

(追記)

コーリン・ロウ著「イタリア十六世紀の建築」の第一章「ブラマンテとレオナルド」と第二章「ブラマンテとユリウス二世下のローマ」の半分くらい読んだ。うーん、面白いやら話が細かいやら(w)。

とりあえず、アンドレア・パラーディオの代表作「ヴィラ・アルメリコ」(1566年、通称「ラ・ロトンダ」)は、ブラマンテ(のこの聖堂?)を経由して、レオナルド・ダ・ヴィンチ(のこのスケッチ?)*10の影響を受けているらしい。そして、上記の冒頭の引用でも書いてあるように、「ロウは1920年代のル・コルビュジエの作品が歴史上の実例、とりわけパッラディオ(引用者註・パラーディオ)のヴィッラから深い影響を受けていることを認知した最初の人物にほかならない」。*11

どことなく、ロウからレヴィ=ストロース構造主義)の匂いがする。これについてはそのうち書く。とりあえず、第五章「住居の類型論:ローマのパラッツォとパラッツェット」と第十一章「都市」は、先に読んでおこう。

*1:理想都市」、「悪徳と美の館」、「ユルバニスム」、「ギリシャ型とローマ型」の記事参照(「ユートピア」)

*2:メモ」、「ヴィラ・バルバロ」、「ヴィラ・コルナーロ」の記事参照(アンドレア・パラーディオ、ヴィトルト・リプチンスキ著「完璧な家」より)

*3:旧ブログの「グローバリゼーション(town)」、「Freedom-1」の記事参照

*4:日食」、別ブログの「ノエル」、「フロリダ」の記事参照(「多様性」)

*5:日食」、「ギリシャ型とローマ型」の記事参照(「ローマ」)

*6:機能から構造へ」、「機能から構造へ-2」、「機能から構造へ-3」、「ユルバニスム」の記事参照(「メタボリズム」)

*7:スーパースタジオ人間のいるランドスケープ』(一九七〇頃)世界中どこでも均質な環境が整備されれば砂漠のなかでも裸で暮らせるという、近代建築に対するアイロニーに満ちたドローイング。ロウらが『コラージュ・シティ』のなかで引用している」(同書の注釈より)。ネットで調べると、他にも「Supersurface」(1972年)というドローイングもある。旧ブログの「TRANSPARENCY-3」の記事参照(スーパースタジオ

*8:旧ブログの「Integral Project-3」、別ブログの「フロリダ」の記事参照(「時間を空間化する」)

*9:チュミは、「ラ・ヴィレット公園」(1983年、画像はここ)の設計者。ちなみに、レム・コールハースは、この「チュミ」の章で言及されている

*10:ダ・ヴィンチの都市計画」、「ダ・ヴィンチの理想都市」の記事参照(レオナルド・ダ・ヴィンチ

*11:同書「まえがき」(レオン・ザトコウスキによる)より。少し続けると、「コーネル大学に在職中の二十八年のあいだロウは、しばしばルネサンス建築について教えた。(中略)ロウの話が他の歴史家の講義とことなっていたのは二つの特徴つまり、絵画や彫刻にみられる透視図や建築表現についての強調と、チンクエチェント(引用者註・イタリア語で1500年代(16世紀)の意)の建築に与えられた卓越性によってであった」