ギリシャ型とローマ型

「日食」*1は見られなかった(泣)。残念。次は2012年5月に、東京で「金環日食」が見られるらしい。3年後か。ところで、「皆既日食」とは、「月が太陽の前を横切って、太陽全部が隠される現象」で、「太陽は月の約400倍の直径だが、地球からの距離も約400倍で、地球から見ると太陽と月はほぼ同じ大きさになるため、ぴったりと隠れる」そうである。

確かに、そう言われてみると、地球から見て太陽と月はほぼ同じ大きさだ、と、この年になって初めて気付いたかも(w)。でも、これって凄い偶然(奇跡)だと思う。

とりあえず、今日の「日食」NHKの動画を貼っておく。「日食」が起きると、気温が下がる、雲が発生する、星が見える、周りの(太陽の光が当たるところの)空が360°オレンジ色に見える、等々の多様な現象が、共時的に連動*2して起きるということを、この動画から学習した。

あと、宇宙から地球の「日食」を撮影すると、この写真のようになるらしい。へー。

「日食」の話は以上っす。

さて、「歴史」を調べるのは別に悪いことでもないだろうけど、ところどころで、整理したりまとめたりする作業も必要だと考える。たとえ、思いつきであっても。えっと。いわゆる、「理想都市」論(あるべき都市像を考えるときの基となる考え)には大きく2つある。それを「ギリシャ型」と「ローマ型」と命名する(とりあえず)。

結論を先に書くと、エベネザー・ハワードの「田園都市*3は「ギリシャ型」で、ル・コルビュジエの「300万人のための現代都市」(「ヴォワザン計画」も)*4は「ローマ型」である、となる。

前者の「田園都市」の人口規模は3万2000人で、その人数を超えた場合は、「もう1つの『田園都市』を設立することによって成長する」とエベネザー・ハワードは述べている。一方、後者の「300万人のための現代都市」では、既に過密になった既存の都市に対して、その都市の中心を改造する(旧ブログbabyismの「表記-4」の図参照)ことでしか都市の過密の問題は解決されない*5ル・コルビュジエは述べている。

前に「メモ」の記事で書いたことと関連させると、「ユートピア」型の都市は前者に多い傾向にはある。そして、その背景には、かなり必然性がある、という話がカール・マンハイム著「イデオロギーとユートピア」(1929年)*6にさくっと書かれているのだけど、まだ読了していないので(エェ?)w、また今度改めてまとめる。

まっ、凄い大まかに言うと、これはジョン・スチュアート・ミル著「自由論」(1859年)*7フリードリヒ・ハイエクの問題や「個人の自由」と「社会の自由」の違いや「観念の自由」と「行為の自由」の違い等々とも密につながった話である、ということだろうと考えている(おぼろげに)。あと、クロード・レヴィ=ストロースも。

では、日端康雄著「都市計画の世界史」、第1章「城壁の都市」より。

古代アテネ

(前略)前八世紀頃、ギリシャ人はポリスという都市国家を各地に形成し始めた。ポリスは人口数百から数千で、(中略)交易が盛んで、貨幣が流通し、地中海や黒海沿岸に殖民都市が建設された。(中略)前五世紀の中頃にはアテナイアテネ)が発展した。

(中略)前五世紀に優れた政治家ペリクレス(前四九五〜前四二九年)が現れ、奴隷制社会のもとではあるが、アテネに民主主義社会をつくり出した。ペリクレス時代の民主主義は、自由な討論、個人の尊厳、市民の一体感、共同体の各種の行事に参加する十分な機会を生み出した。そしてソクラテスに続いて、プラトンアリストテレスなど、名だたる哲学者や思想家が生まれた。

(中略)前五〜前四世紀のアテネの人口規模は、約四万人の市民に奴隷や他国人を含め、一〇万人から一五万人と推定されている。しかし、他のほとんどのギリシャ都市はかなり小さく、人口が一万人を超えた町は数ヶ所にすぎない。

 都市規模についてはヒッポダモスは一万人が適正とし、プラトンも後に都市人口は五〇〇〇〜一万人が適当としている。アリストテレスは、ポリスには「ひとめで見渡せるかぎりの最大の人数」を収容すべきと主張した。

 ポリスは田園と均衡する形で発展した。人口規模がある程度までいくと、ポリスをそれ以上大きくするのではなく、別の、新しいポリスが建設された。つまり、もとの都市の近くに新都市をつくるか、またはもっと遠くに殖民都市をつくるかして、都市の分散が図られたのである。この都市規模を一定に止める考え方はギリシャ都市計画を支配していたのである。

古代ローマ

(前略)都市国家ローマは、前六五〇年頃に成立した。(中略)前六世紀に、七つの丘に分散していた集落が一つの共同体となって城壁で囲まれた都市になった。(中略)前四世紀には、ローマはアテネを凌駕する大都市へと発展した。

 ローマ人は、アテネ人のような洗練された線や形の優美さを生み出す芸術的精神はそれほどなかったが、それに代わって発明の才や実践的能力に優れていたといわれる。事実、給水設備、排水設備、暖房方式などにより、都市への人口集中が生み出す技術的問題を解決して都市を大きく発展させたのである。

ポイントは(上記の)最後の一文です。これは、ギリシャ人が「ポリスの理念が規模の拡大を許さなかった」ことと比べると、その違いは一目瞭然である。この違いは、とても鮮やか。

そして、

 帝政時代に入ると、ユリウス・カエサル(前一〇二〜前四四)が都市改造に着手、手狭になった都心の公共空間を広げ、従来のフォロ・ロマーノを拡張した。カエサルはまた、稠密な市街地の土地不足を解決するため、カンポ・マルツィオ地区の開発を実施した。これは後の皇帝にも受け継がれて公衆浴場やパンテオンなど数多くの施設が建設された。

(中略)四世紀にも、ローマでは人口が増加し、一〇〇万人を超えた。その結果、土地建物の投機が横行し、住環境が過密になり、スラムが蔓延した。建物の高さが六〜七階になるほど高くなり、建築規制が取り入れられ、都市改造が繰り返された。

以上。結論は、冒頭に書いたとおり。

(追加)

話のついでに、その後のローマはどうなったかと言うと、、

 五世紀以降、帝国の解体とともに都市ローマは衰退し、人口も四万人以下になり、その時には住民は水の供給、確保が容易な地区に住んで、古代遺跡の巨大建造物がその外側に点在するという状況になったといわれる。城壁の中は空地や空き家、廃屋が大半を占めたのである。

 古代から中世、ルネッサンスバロック、そして近代に至る長い歴史において建設と破壊、改造を繰り返して、何層もの歴史的都市形成を積み重ねてきた都市がローマである。これはローマに限らず、歴史の古い世界の主要都市の多くが有する共通の履歴でもある。*8

やはり、コーリン・ロウの「コラージュ・シティ」(1978年)を読むべきなのだろうか。うーん、とりあえず、まっ、今読んでいる本をちゃんと読み終えてから考える(w)。

*1:前回の「日食」の記事参照

*2:別ブログの「イオンレイクタウン-3」の記事参照(「連動している」)

*3:旧ブログの「写真銃-2」、「都市と工場-2」、「Prairie House」、別ブログの「ノエル」の記事参照(「明日の田園都市」)

*4:旧ブログの「スケーリング-1」、「スケーリング-2」、「Natural World-2」、別ブログの「アルチュセール」、「クルーグマン」の記事参照(「300万人のための現代都市」)

*5:旧ブログの「Integral Project-3」5の記事参照(「(都市の)中心は条件づけられている。中心は、それを取巻くものによってのみ存在する。また中心は、あらゆる種類の変えることのできない無数の集中によって、きわめて遠くから固定されている」、ル・コルビュジエ

*6:悪徳と美の館」の記事参照

*7:ユルバニスム」の記事参照。「自由論」は16ページまで読んだ。前回から2ページしか進んでいない(w)、というか、頭の中に新しいフォーマットを入れるような、そんな読み方をさせられる不思議な本。

*8:別ブログの「イオンレイクタウン-3」の記事参照(「様式」が次々と上書き(overwrite)されていく@柏市