モダン都市

モダン都市の系譜―地図から読み解く社会と空間」(第2部「モダン都市」)より。

1905年、阪神電気鉄道(神戸〜大阪間)開業。

1910年、箕面有馬電気鉄道、京阪電気鉄道(大阪〜京都間)開業。

 阪急は、職住分離の郊外生活のために郊外住宅地、郊外余暇のために箕面動物園(1910年)、宝塚新温泉・遊園・少女歌劇(1911〜1914年)、学校誘致として関西学院大(1932年)、神戸女学院(1933年)、そしてターミナル百貨店として阪急百貨店(1929年)を設置し、まったく新しい生活・消費スタイルを次々に演出する。
(中略)大都市圏の郊外住宅地を開発し、私鉄沿線の生活・消費スタイルを演出するという、郊外社会が大都市圏内につくりあげられた。*1

1919年、都市計画法

「議会は一人の反対者も無く之れを通過し、世論は挙(こぞ)って之れを歓迎し、極めて短時日の間に成法実施の運びに至れるは立法上の一奇蹟と云うべく……」(大阪朝日新聞1920年1月14日より)

呉服店から百貨店へ。

 百貨店への移行は、単に陳列販売の採用のみならず、商店建築の物理的な改変をともなうものであった。すなわち「日本の百貨店では、明治二十年代後半から四十年代前半*2にかけて販売形式が座売り方式*3から陳列販売方式へ切り変えられていき、それと平行して店前にはショーウィンドーが設置され」*4るという流れができあがる。商店を陳列し値札をつけること(「正札販売」)は、顧客ばかりの商いから、都市大衆を客とする商いへの移行を意味していた。

百貨店の影響で、商店街も陳列販売方式に切り変わった。「遊歩」の誕生。

 石川(引用者註・石川栄燿)によれば、時計時間や分業に機制される「機械的・分化的・無味乾燥」な社会生活が都市的な生活様式として定着し、「時間と金のない」都市大衆は「人間的・戸外的・散歩的なもの」を欲するようになったという。その結果として、商店街はもっとも望まれる「慰楽対象」となった。

今和次郎は百貨店を「縦の商店街」と呼び、著者は商店街を「横の百貨店」と呼んでいる。これは現代の(「イオンモール」等の)「ショッピングモール」が、どのような場所であるのかを考える上でも、示唆に富んでいる*5。また、石川は、商店街の販売方式と建築形態が変わったことによって、「素見」(ウィンドーショッピング)と「購買」の分化が起きたとも分析している。

(続く) →「木賃アパートと団地

*1:その他に、ハイキング、いちご狩、チューリップ狩、ゴルフ場、梅渓(ばいけい)等も私鉄沿線につくられた

*2:西暦で表すと19世紀末(1890年代前半から1900年代後半くらい)

*3:商品をいちいち出して客に見せる対面販売

*4:初田亨「百貨店の誕生―都市文化の近代ちくま学芸文庫(1999年)

*5:旧ブログ(babyism)の「Integral Project-2」の記事参照(「ラゾーナ川崎」)