悲しき熱帯II

クロード・レヴィ=ストロース著「悲しき熱帯II」第6部「ボロロ族」より。

 そこに開けているのは一つの別世界だった。*1

(中略)それはあたかも、この土地――世界で最も古く、中生代にブラジルとアフリカをつないでいたゴンドワナ大陸そのままの残片なのだが――があまりに若く、河がそこに河床を穿って流れるだけの時間がなかったかのようだ。

 ヨーロッパは、模糊とした光のもとに明確な形を提示する*2。ここでは、われわれ伝統に捉われている人間から見ると、空と大地の役割が入れ替わっている。乳様に棚引いているカンポ(野原)の上方で、雲がこの上もなく突飛な構築物を造りあげている。空は形と容積を具えた領域であり、大地は太古の柔らかさを保っている。

感動的な文章です。言葉が与える「喚起力」は本当に素晴らしい。

その「そこ」の動画も見つけたけれど、見ないほうがいいかも(笑)。*3

ボロロ族の住居

(前略)形と色の知覚によって天啓を受けたように輝いていた。その脆弱さにもかかわらず、全体が大きいために荘重な印象を与える民家は、西洋にも知られている材料と技術を、矮小な表現を通して用いている。つまり、これらの住居は、建てられているというより、結び合わせたり、編んだり、織ったり、刺繍したりして作られ、使っているうちに古色を帯びたものなのだ。これらの家々は、居住者を冷徹な石の塊の下に圧し潰す代りに、中に人が住み、動いているということに対して柔軟に反応している。西洋で起こっていることとは反対に、ここでは、住居は常に人間に従属しているのである。住んでいる人たちの周りに、村は、軽く撓(しな)やかな鎧のように立っている。それは、われわれの都市よりは西洋婦人の帽子にむしろ近い。いわば途方もなく大きな髪飾りであって、半円形に曲げた木と葉の生活の名残りを留めているが、これを建造した人たちの手腕は、様々な要求を全体の造りの中に生かしながら、自然の寛ぎを保つことに成功しているのである。

本当に素晴らしい文章です。「石の塊」のヨーロッパとの対比も鮮やかです。

(続く) →「ボロロ族の集落

補足。「悲しき熱帯II」(1955年)第6部「ボロロ族」は、ケヴィン・リンチ著「都市のイメージ」(1960年)の次に読みました*4。ちなみに、ケヴィン・リンチアメリカの「都会人」を、まるで「未開人」を調査しているかのように(面接)調査しています。そして、その方法ゆえに「都市のイメージ」は「近代都市論をくつがえすほどの変革的出来事」*5となったのです(らしい)。

*1:別ブログの「別世界性」の記事参照

*2:旧ブログの「Integral Project-3」の記事参照(ヨーロッパの「光」について)

*3:旧ブログの「Freedom-1」の記事参照(「映像」について)

*4:別ブログの「雑記5」の記事参照

*5:曽根幸一著「都市デザインノオト」(2005年)