メモ

旧ブログ(babyism)の「Integral Project-3」で、「『選択肢』の多さ=自由」と書いたけど、アンリ・ベルクソン著「時間と自由」(1889年)という本によると、そうではないらしい。

熊野純彦著「現代哲学の名著」(2009年)第三章「時間・反復・差異」より。

 たとえばある目的地を目指す場合、XとYという二つの道が選択可能であれば、どちらかの道を選ぶことは自由な行為であるのだろうか。ベルクソンの答えは否である。まずどちらかの道を選んだ場合から考えよう。Xの道を辿った後に「Yの道も選ぶことができた」と述べたとしても、自由は存在しない。なぜなら、Xの道を進むという行為は既に為されてしまっており、様々な選択肢の中からその行為が選ばれたことについて、常に原因を想定することが可能だからである。仮にXの道を選んだ当人が、「私の自由意志によりそれを選んだ」と述べたとしても、当人を取り巻く無数の環境因子がそのように行為させた、と想定することは可能である。つまり既に為されてしまった行為においては、行為を先行する原因により既に規定されている、と考える「決定論(determinisme)」を排除することはできないのである。

 では選択が行われる前の状態であれば自由は存在するのだろうか。XとYの分かれ道に面して、XもYもどちらも選ぶことができる状態であれば、自由は存在すると言えるのだろうか。答えはやはり否である。なぜなら自由は行為との関係であるはずなのだが、XもYも選べるというだけではまだ何の行為も行われていないからである。したがって、因果性によって行為を説明する決定論も、またそれに対して選択の余地を主張することによって反論する立場も、どちらも自由の存在を論じるには不適切であることになろう。

うーん、意味が分からないまま自動機械のように書き写したけど(w)、要するに、「自由とは何か」ということだろうか。*1

でも、これは困ったな。根本的に、僕の都市モデル(都市理論)のシナリオ*2は、「『ポストモダン社会』の理想を都市モデルに、前者の特性を少しも損うことなしに統合すること」*3を根底に置いている。つまり、ル・コルビュジエが描いた「300万人のための現代都市」(モダニズム都市)*4と対極に位置するような都市モデル(ポストモダン都市の基礎)をつくった上で、諸シナリオをこれにスーパーインポーズ*5させる段取り(二重構造*6)なのだけど、「自由は行為との関係である」(上記)ならば、自由の枠組(基礎)の都市モデル化は、より困難な作業になってしまう。

建築家の伊東豊雄*7は、2009年4月に放送されたNHKこの番組で、「そこに居る人が自由に振る舞える空間」を理想としている、と語っていたのだけど、ベルクソンの「自由」はこれに近いようにも思える。

渡辺公三著「レヴィ=ストロース―構造(現代思想の冒険者たち)」(1996年)より。

 現代における自由権なるものを、もともと西欧で生まれ、歴史的、社会的にきわめて相対的な意味しかもちえない人間の「精神的」な自由の内容から規定することはむずかしい。また、時には全体主義の論拠に転化してしまうことさえある相対的な価値を、絶対的な原理にまで押し上げてしまうことは危険である。この二点を指摘した後、レヴィ=ストロースは「どのような自由にもあてはまるほど明らかな基本原理が考えられるだろうか」と問い、それは精神的存在としての人間ではなく「生物としての」人間の定義であるとする。

著者はこれを「逆説としか言いようのない原理」と述べている。「東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム」(2007年)*8で、似たような話を読んだような記憶もある。上記の「全体主義の論拠に転化してしまうことさえある」ことについては、経済学者のフリードリヒ・ハイエクが「隷属への道―全体主義と自由」(1944年)で詳細に論じている。うーん。

うーん。

あと、冒頭の哲学の本の同章(第三章)のジル・ドゥルーズの節で、フリードリヒ・ニーチェの言葉が引用されている。

「創造の遊戯をするためには、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。」*9

旧ブログ(babyism)の「Integral Project-1」の記事で、「『ユートピアを掲げること』と『ディストピアへ向かわせないこと』は異なる、と思う」とか書いたけど、そういうことだろうか。

僕がそのように書いた理由はエベネザー・ハワードで、エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)の大まかな話の流れは、(1)「田園都市」には魅力があること、(2)「田園都市」が同時代の輿論(よろん)や知識人の考えにも広く合致していること、(3)経済的にも問題がないこと、(5)「田園都市」が普及しても問題がないこと*10、の順で、つまり、「魅力」が一番始めにあるからです。

これが真理だろう(か)。

あと、先月の「理想都市」の記事で、レム・コールハース著「コールハースは語る」から、「ルネサンス」について少し引用したけれど、そのルネサンス(後期)の建築家のアンドレア・パラーディオについて、メモる。*11

ヴィトルト・リプチンスキ著「完璧な家」(2005年)第二章「なんて素敵な家」より。

「偉大な建築家はそれぞれ独自の古代を発見している」というのはジェームズ・アッカーマンの卓見である。パラーディオも廃墟によじ登り、フィールド・スケッチしたものを熟考し、遠い過去の姿を判読し、理解しようと試みることによって彼自身の古代を発見した。ルネサンスの人々にとって古代ローマとは、主として想像力によって再創造された世界にすぎなかったが、それは建築家たちにスケールの大きな夢を見させてくれる潜在的な力を秘めたフィクションであった。パラーディオの作製する復元図も独創的で、時に空想的にすら見える。

確かにアンドレア・パラーディオの建築は、どことなく、アニメっぽい(宮崎駿っぽい)。この本の著者は、パラーディオの建築は、「くたびれても手垢がついてもいない」、「真のリナシメント*12に伴う初々しい紅潮がある」と述べている。いずれにせよ、パラーディオは、こうして自分の世界を獲得したのである。

ついでに、この本は、とてもフランクに(紀行文ふうに)書かれていて読み易い(今読んでいるところ)。

以上、だらだらとメモ。

*1:旧ブログの「Freedom-1」、「Natural World-2」、「Natural World-5」の記事参照(自由)

*2:別ブログの「クルーグマン」、フロリダ」の記事参照(「シナリオ」)

*3:環境のイメージ」の記事参照(「感性の領域を理性の領域に、前者の特性を少しも損うことなしに統合することを企てる」、レヴィ=ストロース

*4:旧ブログの「スケーリング-1」、「Natural World-2」、別ブログの「アルチュセール」、「クルーグマン」の記事参照(「300万人のための現代都市」)

*5:評論家の宇野常寛は、「ゼロ年代の想像力」(2008年)で、というか、荻上チキ著「社会的な身体」(2009年)からの孫引き(ごめん)なのだけど、「昨今のテレビバラエティ番組がなぜテロップを多用するのか。それは表現の空間を規定する力が、データベース消費の時代には弱くなるからだ。(中略)だからテロップを入れ、空気を指定してあげなければならない」と述べている。念のため、僕は別に都市にテロップを入れること(サイン計画のこと)を言っているのではない、ゆえに、ケヴィン・リンチなのである。「環境のイメージ」の記事参照(ケヴィン・リンチ

*6:旧ブログの「Guide to Shopping」(二重性)、「Integral Project-1」(二重構造)の記事参照

*7:旧ブログの「表記-10」の記事参照(伊東豊雄

*8:別ブログの「抹消された「渋谷」」の記事参照(「東京から考える」)

*9:旧ブログの「東京の景色-2」の記事参照(「自分の風景を獲得する」)

*10:「(4)」を抜かしたのには、理由がある。ここが一番の山場。そのうち書く。一応、同書の第12章。旧ブログの「Prairie House」の記事参照(「明日の田園都市」)

*11:旧ブログの「形骸化」の記事参照(アンドレア・パラーディオ)

*12:再生(ルネサンス)の意、Rinascimento