ユルバニスム

(「機能から構造へ-2」で書いた「ブラジリアとシャンティガールのもつ致命的な欠陥」について調べていたら、磯崎新による「都市計画」の良いまとめ(通史)があったので、メモ。分かり易い。)

GA JAPAN 92」(2008年)、特集「さけて通れないコルビュジエ」第3回「ユルバニスムと都市計画」、「チャンディガールからハイパー・シティへ」(磯崎新*1)より。

 日本では都市計画と言うけれど、フランス語のユルバニスムはアーバン・デザインに近い言葉です。それがひとつの流れで、もうひとつ、シティ・プランニングの考え方がある。これは都市を規制する、コントロールすることからでき上がっている。コントロールの手段は、コンセプトというより、都市全体の構造、規模などに関するマスタープランです。それは道路パターンとゾーニング、さらにその中に、高さ、密度などの制御を含んでいる。これは法制化されて効力を発揮します。言い換えると、都市コントロールは、近代都市ができ上がっていく過程=近代国家がどう都市を組み立てるかという過程でつくられた。実際に世の中で言う都市計画は、そういう手のものです。*2

 それに対して、いずれCIAMにまとまる流れとしてのアーバン・デザインの系列。当時、近代デザインの運動が進んでいく中で、アーキテクト側から都市を見る見方が出てきていた。そこで、コルビュジエCIAMのコンセプト、アテネ憲章をつくり、具体案として、「輝く都市」を提案した。その時に初めて形をなしていったわけです。*3

(とりあえず、関連記事を「注釈」にリンクしておく)

コルビュジエが)ずっと一貫しているのは、リアルな都市を制御していく政策的な方法論に対して、別のイメージをドカーンと持ち出すことによって、衝撃的なデザインの提案の仕方。それはある意味で、デザインや建築を含んだ近代芸術一般の、つまり近代の持っているひとつのやり方だと言えます。

 アヴァンギャルドと言われている近代芸術がどういうことを考えてきたかというと、十六世紀のトマス・モアに始まり十九世紀にはシャルル・フーリエなど何人かがやろうとした、ユートピア社会主義という伝統があるわけです。二〇世紀には、この伝統と社会主義革命が繋がって、将来の新しい社会を理想社会としてつくろっていこうという流れがあった。コルビュジエたちは、デザインを通じて、その流れに入ろうとしたと考えられます。*4

 つまり、アヴァンギャルドに共通しているのは、理想的なユートピアを未来の目標に組み立てて、そこに前進していくということ。それに対して、資本の動きでドンドン広がるという都市の現状を、将来どうこうより、今に対してリアルにコントロールする手法。そのように、二つの都市の見方の背景を捉えられると思います。*5

 ぼくたちが建築家として近代建築を受け継ごうとした一九三〇〜五〇年代という時代は、この理想社会を依然として抱えていて、それに向かって前進しようという流れがありました。その時、芸術的にアヴァンギャルドであることと、政治的にアヴァンギャルドであることが、一致しなくてはいけないというスターリン以来の理論がロシアにはある。日本でも、この論争がずっとありました。そのあげくに分裂をしたんですね。そこで政治を言わずに、芸術のアヴァンギャルドに絞っていったというのが、五〇年代のひとつの流れです。コルビュジエ系統のユートピア論では、絵を描かざるを得ない。その絵の描き方は、CIAMの中からチームXが出て、その後にメタボリズムが来る。それが最後でしょう。*6

確かに、マックス・ウェーバーレヴィ=ストロースの解説本を読むと、彼らの「政治」と「学問」の関係(選択)に対するもの凄い葛藤に驚かされる。20世紀の前半と後半では、かなり違う。*7

 それから、もうひとつ大きな動きとして、二〇世紀の後半に、都市規制の流れの中から出てきたものがある。つまり、そういう規制の仕組みを一切合切外せという動きが出てきたのです。つまり、デレギュレーション、日本では規制緩和と言っているヤツです。言葉は緩和ですが、実際は規制無しというくらいの状態で、一九七〇年代からそうしない限り資本主義は上手くいかないと言われるようになっていた。これを一番極端に言った政治家は、サッチャーレーガンだと言われている。その結果、何が起こったか。それがグローバリゼーションなんです。*8

 その時、都市はかなり無茶苦茶な状態になる気配がありました。その頃に、レム・コールハースは「ジェネリック・シティ」*9と言ったわけです。ぼくの見るところ、彼は直感的に、今までの仕組みを崩す経済法則*10が出てきたんだから、都市もそれに応じて変わっていいんじゃないかと考えた。その日本語訳として、ぼくは「無印都市」と言っています。無印良品は、今のブランドになっているやつじゃなくて、全くないところから全て始めてしまえというものです。同じように、都市も考える。結局は、やりっ放しで、どうとでも動いていいというバラバラ状態の都市。そんな変化の状態をそのまま認めてしまえという姿勢が、基本にあるわけです。*11

(中略)そこでは、コルビュジエの描いていたような、寸法や形を持った都市が完全に溶けちゃったわけです*12。ぼくは、「見えない都市」*13とか「流動化する都市」*14あるいは「都市はバラバラになって群島状になる」*15と言っていたんだけど、まだ上手く捉えていなかった。それは、実はお金の動き方と同じなんです。会社の買収や合併、ものの証券化など、今、日常的に起こっていることと都市の変化は、同時発生している。最近、ぼくはそれをひっくるめて「ハイパー・シティ」と呼んでいます。つまり、もはや都市でもない。そこで何が起こるかが、これからの問題です。

 今の世界の建築家の動き方のひとつは、サーフィンしている状態です。(中略)建築家は、波に乗って、開発の一部のちょっと目立ったアイコンを、ブランドとしてデザインする。アイコニック・アーキテクチャと呼ばれているものです。*16

(中略)これはバブル状態で、いつ止まるかも分からない状況なんです。*17

これは、かなり分かり易い。以上。

さて、60年代の次は70年代の建築・都市を調べてみるかな。うーん、70年代と言えば、この曲か。いまいちピンとこないけど。その動画の鍵盤を弾いている人の手が(小指が)気になる(w)。しかし、何から読み始めればいいのだろう?コーリン・ロウかな?止めておこうかな、他に読むべき本が多い。とりあえず、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」(1859年)をタイトル買い。ジョン・スチュアート・ミルは、エベネザー・ハワードの「明日の田園都市」にも、少し引用されている。*18

少しフライングして、ネットで調べてみると、ジョン・スチュアート・ミルは「寛容」*19という言葉をよく使っているらしい。あと、先週の「メモ」の記事で、「自由」についてブツブツ書いたけど、これは「個人の自由」と「社会の自由」に分けたほうがいいらしい。でも、根本的に僕が知りたいのは、「環境の自由」についてである。例えば、21世紀以降も加速する住環境の「スパイキー化」は*20、私たちを「自由」にするのか、それとも「不自由」にするのか、といった問題もこれに含まれる(都市経済学者のリチャード・フロリダは、その答えを見い出せていないし*21、僕もその答えを知らない)。

(追加)

磯崎新の「新宿計画」(1961年)の動画(誰がつくったんだろう?)。「メタボリズム」建築。

(追加2)

ジョン・スチュアート・ミル著「自由論」、新書サイズと思って油断した。字が小さい(泣)。読めない漢字がある(大泣)。日本語とは思えない(あはは)。まっ、先に一緒に買った、仲正昌樹著「集中講義!アメリカ現代思想―リベラリズムの冒険」(2008年)を読む(のろのろと)。

ところで、本記事の冒頭に書いた、「シャンティガール」について、同号同特集で、建築家のキラン・ジョシという人が「チャンディガール再読」と題して、チャンディガールの現在の様子をまとめている。少し引用すると、「現在の成長の趨勢を見ると、二〇二〇年に都市コンプレックスの人口は二〇〇万人を超えるであろうことが予測される」、「深刻な人口圧力、並行する雇用の機会への要求、先端的なインフラ、最近の土地価格の六〇〇〇倍の上昇はまた、建設区域の追加承認、商業および住宅地の細分化、既存の低密度地区の高層化と高密度化への要求をもたらしている」、「第一期からの最も大きな変化は、産業地区内で進行中の巨大ショッピングモール付きマルチプレックスへの大規模な区画の転換である」。*22

*1:機能から構造へ-2」の記事参照(磯崎新

*2:旧ブログの「誤算-1」、「Natural World-2」の記事参照(「都市はコントロールできたのか」)

*3:別ブログの「アルチュセール」の記事参照(「ル・コルビュジエの凄いところは多少、強引であったとはいえ…」)

*4:理想都市」、「悪徳と美の館」の記事参照(「ユートピア」)

*5:別ブログの「イオンレイクタウン-2」の記事参照(「建築学、都市計画学(中略)が、同じ『歴史』(都市史)を共有してないように思える」)

*6:機能から構造へ」、「機能から構造へ-2」、「機能から構造へ-3」の記事参照(CIAM、チームX、メタボリズム

*7:牧野雅彦著「マックス・ウェーバー入門」(2006年)、渡辺公三著「レヴィ=ストロース―構造(現代思想の冒険者たち)」(1996年)、あと、レヴィ=ストロース著「悲しき熱帯II」にも書かれている。

*8:別ブログの「クルーグマン」の記事参照(「小泉が何を『壊した』のか」)

*9:別ブログの「抹消された「渋谷」」、「雑記5」注釈8の記事参照(「ジェネリック・シティ」)

*10:別ブログの「ノエル」の記事参照(「経済の原則」)

*11:磯崎新とレム・コールハース」(浅田彰、2001年)参照

*12:別ブログの「雑記5」の記事参照(「とけて消えちゃいそうだ」←Perfumeの「ワンルーム・ディスコ」の歌詞)。一応、その記事では、この曲の歌詞とケヴィン・リンチを掛けている。「環境のイメージ」の記事参照(ケヴィン・リンチ、「わかりやすさ」)

*13:旧ブログの「バリ-1」(「『ミエナイ』もの」)、「World of Tomorrow」(「ケータイ都市」)、「Integral Project-3」(「不可視になっていく」)の記事参照

*14:別ブログの「フロリダ」の記事参照(「クリエイティブ資本論」、リチャード・フロリダ)

*15:別ブログの「雑記6」(「島宇宙」)、「イオンレイクタウン-3」、「マンハッタンのゆくえ(後)」、「雑記4」(「エッジシティ」)の記事参照

*16:社会的な身体」注釈1、別ブログの「モーション・タイポグラフィ」、「イオンレイクタウン」の記事参照(アイコン)。ところで、最近、「換喩」という言葉を覚えた(w)。アイコンは(「隠喩」ではなくて)「換喩」である。

*17:別ブログの「マンハッタンのゆくえ(後)」の記事参照(「経済の『速さ』と建築の『遅さ』がぶつかっているみたい」)

*18:ジョン・スチュアート・ミル著「経済学原理」、1848年

*19:別ブログの「フロリダ」の記事参照(「寛容性」(Tolerance))

*20:別ブログの「フロリダ」の記事参照(「現実の世界は鋭い凹凸があって『スパイキー』なのである」、リチャード・フロリダ)

*21:別ブログの「雑記6」注釈8の記事参照。「スパイキー化」とは、端的に言えば、都市と地方の格差が拡大するということ。

*22:旧ブログの「Natural World-5」の記事参照(「チャンディガールの都市計画」、ル・コルビュジエ)。航空写真