メモ-2

ざっと、メモ。←考え中

仲正昌樹著「集中講義!アメリカ現代思想―リベラリズムの冒険」(2008年)を読み終わる。この本は読後感が独特です(泣)。と言うか、前に仲正昌樹著「今こそアーレントを読み直す」(2009年)も読んでいるのだけど、その本に書かれていた「分かりやすさを否定する」という著者のスタンスが、この本にも貫かれているように思える。

まっ、そんなわけで、前に読んで分かりやすかった、渡辺公三著「レヴィ=ストロース―構造(現代思想の冒険者たち)」(1996年)*1と同じシリーズの、川本隆史著「ロールズ―正義の原理(現代思想の冒険者たち)」(1997年)を買って、一気に2/3くらいまで読んだのだけど、うーん、何だろうな、これは(w)。大局的には、これは「演繹」*2と「帰納」を巡る問題で、ロールズは「正義論」(1971年)でその両者を用いる方法(「反照的均衡」)を編み出すわけだけど、僕自身はどうしても「演繹」のほうばかりを重視してしまう、というところが関係しているのかも。それに、前回の「コーリン・ロウ-3」の記事の追記で少し書いたように、「自然状態」(ロールズでは「原初状態」)から「演繹」的に世界を組み立てている理論(ロールズの「正義論」を批判したロバート・ノージック著「アナーキー・国家・ユートピア」(1974年)も含む)と、都市理論(都市モデル)は、どちらも「理科」的で*3、とても相性は良いのです(w)。もちろん、いろんな意味で、それだけでは問題はあるだろうけど、ル・コルビュジエ著「ユルバニスム」(1925年)の「現代都市」の章から少し引用すると、

 実験室における専門家の仕方にならって、私は個々の場合を避け、あらゆる起伏を遠ざけ、理想的な土地を選んだ。目的は、既存の事態に勝つことではなく、厳密な理論を構成することによって、現代の都市計画の基本原理をつくるにいたることであった。これらの基本原理は、偽りでなければ、現在の都市化のあらゆる方式の骨組を構成することができる。それらは、それに準じて事を運びうる規則となろう。

ということです。これはエベネザー・ハワードの「田園都市」(1902年)も同様です。旧ブログの「スケーリング-5」の記事で書いた、ヨハン・ハインリヒ・フォン・チューネンの「農業立地論」(1826年)もです。少なくとも、ルネサンス以降の近世から1960年代までは、空間に対するこういう方法論の(古典的な)伝統はあったのです。ところが、1970年代以降は、中世に逆行するか、近代批判を延々と続けるか*4、消費社会の波に乗るか、等々、まっ、まだまだ勉強中ではあるけど(w)、かなり様変わりする(らしい)。いずれにせよ、「自然状態」とは、政治哲学と都市理論をつなぐ(総合する)一つの可能性なのである、ということは改めて確認した。それと、前に別ブログの「どこでもドア」と「アルチュセール」の記事で「片方では『どこでもドア』を目指しつつも、もう片方ではそれとは別の何かを含んだものになる」と書いたのだけど、その「別の何か」と交差する形式を探るヒントが、政治哲学にあるようにも思える。

あと、前に「ボロロ族の集落」の記事で「詳しくは後述する」と書いたのだけど、タイミングがいいので、今書く。

クロード・レヴィ=ストロース著「悲しき熱帯II」(1955年)*5、第9部「回帰」より。

(前略)しかしながら、このように自らの手でわれわれ自身を弾劾するからといって、そのことは、時間と空間の或る特定の点に位置している現在あるいは過去の、どこそこの社会にわれわれが優等賞を与える、ということを意味しない。(中略)それからわれわれは、結局、何であれ一切の社会状態を裁き、社会秩序はそこに腐敗をもたらしたに過ぎない自然状態を賛美することに行き着くのであろうか? 「秩序をもたらす者に気を許すな」とディドロは言っているが、これは彼の立場だったのである。彼にとって、人類の「歴史要説」は次のように要約される。「自然人というものがいた。この人の中に人工的な人間が持ち込まれた。そして、洞窟の中には戦いが始まり、一生続くことになった。」 この考えは馬鹿げている。

(中略)これらの問題を検討しながら、私は、ルソーがそれらに与えたもの以外には答えがあり得ないのではないか、と思わざるをえない。ルソーは、こんなにも貶められ、かつてなかったほど誤解され、理不尽な非難の的にされて自然状態の賛美者(中略)に仕立てられている。(中略)ルソーは、哲学者のうちで最も民族学者だった。遠く離れた土地に彼が一度も旅したことがなかったにせよ、文献資料に基づく彼の知識は、その時代の人間にとって可能であった最も完全なものであり、彼はその知識に(中略)農民の仕来りや民俗的思考への共感に充ちた関心によって生活を与えたのである。ルソー、われらの師。ルソー、われらの兄弟。(中略)民族学者の立場に内在する矛盾からわれわれが脱け出すには、『人間不平等起源論』が遺した廃墟から、『エミール』がその秘密を瞥見させてくれる『社会契約論』の広々とした構築へとルソーが進んで行くことを可能にしたあの遣り方を、われわれなりに繰り返す他は全くないのだから。あらゆる秩序を無に帰した後で、新しい秩序を築くことを可能にするような諸原理をどのようにして見出せるのか――われわれはそれを、ルソーのお陰で知ってるのだから。

(以上)

(追記)

冒頭に書いた、仲正昌樹著「集中講義!アメリ現代思想リベラリズムの冒険」の中で、アイン・ランドという小説家の名前が出てくる(P.121)。アイン・ランドは、「水源―The Fountainhead」(1943年)の著者で、このページによると、この小説のハワード・ロークのモデルはフランク・ロイド・ライト*6で、彼の師匠のヘンリー・キャメロンのモデルはルイス・サリヴァン*7であるらしい。へー。この小説は1949年に映画化されていて、特にハワード・ロークのこの法廷のシーンが有名であるらしい。その他、ネットで調べてみると、結構、面白いことが判明する。若き日のアラン・グリーンスパンFRB議長はアイン・ランドの信奉者だったらしい。んー。

(追記2)

同じく、冒頭に書いた本の、ロールズの「正義論」の解説のところを読んでいる時、Starshipの「We Built this City」という曲を想い出した。ロールズの「正義」と、この曲の「ロック」*8が重なって聞こえた(w)。ネットで調べてみると、この曲は1985年の発売なのだけど、1970年代のロサンゼルス*9を曲にしているらしい。更に、この曲のプロモーションビデオの1分15秒〜1分40秒頃には、第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが、と言うか、リンカーン記念堂リンカーン像が出てきます(w)。リンカーン記念堂は、1963年に「キング牧師による、『私には夢がある』という一節で有名な演説が行われた」(同書、P.68)ところです。あと、2分15秒〜2分35秒頃の「サイコロ」は、「ポストモダン」(または「リベラル・アイロニスト」*10)の隠喩かも(それはないか)。

更に、おまけで、同曲名でYouTube検索してみると、いくつか面白い動画があった。アムステルダム編(この動画)、シュチェチン編(動画)、ウィリアムズバーグ編(動画)です。アムステルダムはオランダの首都、シュチェチンはポーランドの都市(ドイツに近い)、そしてウィリアムズバーグはアメリカのいわゆる「聖地」です*11。まっ、ウィリアムズバーグの動画に関しては、この動画*12とかこの動画のほうがいいかもな(w)。

*1:環境のイメージ」、「機能から構造へ-2」、「社会的な身体」、「メモ」、「ユルバニスム」の記事参照

*2:別ブログの「ノエル」、「雑記6」の記事参照(「演繹」)、旧ブログの「For Tomorrow」の記事参照(「男の美学」)

*3:日食」の記事参照(「理科」的)

*4:機能から構造へ-2」の記事参照(「歴史の落丁」)

*5:悲しき熱帯II」、「ボロロ族の集落」、「ボロロ族の集落-2」、「ボロロ族の装飾」の記事参照(「悲しき熱帯II」)

*6:旧ブログの「Prairie House」、「Integral Project-2」の記事参照(フランク・ロイド・ライト

*7:旧ブログの「TRANSPARENCY」、「Material World-2」、別ブログの「イオンレイクタウン」注釈2の記事参照(ルイス・サリヴァン

*8:「We built this city on rock and roll」と歌っている。ちなみに、評論家の宇野常寛は、「新潮(2009年6月号)」の「母性のディストピア――ポスト戦後の想像力(八)」の「『汎コミュニケーション化』の時代を考える――ゼロ年代の『政治と文学』」で、「ロックの不可能性」と「新しい政治性」について論じている。前者は、「反抗すべきメインカルチャーはもはや存在せず、サブカルチャー島宇宙が乱立するだけのこの世界においてロックは、カウンターカルチャーとしては原理的に存在しない」、後者は、「過剰にセクシャルで幼児的な『おたく』文化が代表するように、<戦後>という時代は成熟をめぐるアイロニカルな回路が表現する強度を保証していた。そして<戦後>以降の世界、私たちは自分たちが生きる世界を覆う政治的なるものの像をまだ言葉にできていない」と述べている。別ブログの「フロリダ」注釈14の記事参照(宇野常寛

*9:ロサンゼルス」、旧ブログの「Edge City」の記事参照(ロサンゼルス)

*10:ローティは、自らがコミットしている思想が、偶然的なものにすぎないことを知っているリベラルのことを、『リベラル・アイロニスト』と呼ぶ。(中略)リベラル・アイロニストは、『リベラリズム』という思想を選択し、それにコミットすることもあるが、その選択が偶然的なものであって、他人に強制すべきではないことを承知している。『リベラル・アイロニスト』は、近代的市民で支配的になっている『自由』観でさえも偶然の産物にすぎず、文字通りの意味での“普遍性”は有していないと見なしている点では、ポストモダン的である」(同書、P.205)

*11:旧ブログの「表記-8」(ウィリアムズバーグ)、「New World」(アメリカの歴史)の記事参照

*12:一応、1分40秒〜1分55秒頃は「Give me Liberty, or give me Death!」と言ってる、パトリック・ヘンリーです。旧ブログの「表記-7」の記事参照(アメリカの独立)