コーリン・ロウ-3

(前回の「コーリン・ロウ-2」の続き)

相田武文、土屋和男著「都市デザインの系譜」(1996年)、第14章「ロウ」より。

時間のコラージュ(続き)

 ロウらは「コラージュ的なアプローチ」を、「オブジェクトをその本来の文脈から徴用する、あるいは誘い出す手法」として定め、ユートピア*1と伝統をどちらも成立させうる唯一の方法だと言う。なぜなら都市は、社会と個人の「絶対性と伝統の価値についてのそれぞれの解釈」が具現化して集合したものと考えられるが、コラージュはそうした「混成のディスプレイや自主性の尊重といったものに対応できる」方法だからである。けだし、「精神上の理想都市」は「コラージュ」として考えられるのである。

うーん、やはり、原著、コーリン・ロウ著「コラージュ・シティ」(1978年)を読まないことには、意味がいまいち分からない。

 こうして論を進めながら、ロウらは、建築をつくる側からの都市に対する姿勢を語っている。彼らは引用を交えながら、「記憶」と「想像力」を問題にする。

 いま一度、ローマ*2を思い起こしてみる。いくつもの時代の堆積した「重ね書き羊皮紙(パリンプセスト)」としてのローマを。シクストゥス五世の計画は古代のローマの上に重ね合わされた。古代の遺跡の隣で新たな工事が進む。古代の建築で使われた石が新たな計画で材料として使われる。これは異なる時間の同じ場所への併置である。そこでは古いものと新しいものとのずれが新たなイメージを生み出すのである。

 または、パリを思い起こしてみる。王の宮殿であったルーヴルはルイ一四世時代から拡張され、やがて役所にもなり、今では美術館へと変わった。そのルーヴルから延びた都市軸は、ナポレオンやオースマン*3の時代を経て延長してゆく。そして現代も、グラン・アルシュはその軸に則って計画される。都市軸というモデルの上に、異なる時間が連続していく様子は、伝統としてのユートピア構築の過程であり、ユートピアとしての伝統が相貌を現す過程でもある。

うーん、あえてポイントを挙げるならば、この本が「建築をつくる側からの都市に対する姿勢を語っている」(上記)ということになるだろう。「全体性の消失」*4した世界における建築家の「処方箋」(モダニストにとっては「諦念」に対する「鎮痛剤」、ポストモダニストにとっては「大麻」)として書かれたような気もしなくない。うーん、前々回の「コーリン・ロウ」の記事で、「どことなく、ロウからレヴィ=ストロース構造主義)の匂いがする」と書いたけど、じつは、これはレヴィ=ストロースから由来している問題であるように思える。要するに、カイヨワの「呪い」。今度書く。

「シクストゥス五世の計画」については、同書の第4章「シクストゥス五世」に詳しく書かれている。ちなみに、上記の「古代の建築で使われた石が新たな計画で材料として使われる」ということは、古代の建築を、ある価値観に基づいて「壊す」ということでもあるので、「これには古代の遺跡の保存という立場から批判も多い」(第4章)とのこと。あと、コーリン・ロウ著「イタリア十六世紀の建築」の第11章「都市」にも、シクストゥス五世について書いてある(さっき読んだ)。今度書く(時間があれば)。

 ベンヤミンが、オースマンの改造によって新しくなったパリを論じながら主題としていた、新しいものと古いものとの相互作用は、現実の都市の建物そのものに対しても言えるのである。すなわち、古いもののなかに新しいものが挿入されることによって古い世界は目覚め、有りうべきユートピアを構想させる想像力のきっかけとなる。そしてまた逆に、新しいもののなかに古いものが残ることによって、古いものに新たな光が当てられ、そうして見いだされた古いものは、今はそこにはない、かつてあって、あるいはあったかもしれない別の世界へと思いを馳せる緒としてわれわれをいざなう。

 例えば、パリを歩いてポンピドゥ・センターに至るとき、古いマレ地区*5の街並のなかから突如として現代の建築が現れる様は、今まで歩いてきた街に対するイメージを覚醒させる。また逆に、例えば、新しい建物で覆い尽くされたかに見える東京の街角で、小さな建物に刻まれた古い造形に気づくとき、都市の記憶という言葉が実感をもって獲得されるに違いない。こうした作用は、常に都市が変化し、構築が続くからこそ見だされるのであって、伝統からもユートピアからも、どちらか一方によっては生まれてこない。

 建築が都市の断片であるのは、都市が時間のなかでつくられ、建築が時間の断片を示すからである。

(以上)

うーん、このまま続けて、この次の第15章「チュミ」を書き写したい気分にもなってくる(w)。人類史上の全ての都市理論の「型」を知る、すなわち、都市理論の「有限」さ*6を知るということは、新たな都市理論へ向けた展望(見晴らし)をもたらすに違いない*7。「チュミ」は、そのうち書く(時間があれば)。

まっ、正直言って、建築家にとっては都合の良いかも知れないコーリン・ロウの言葉よりも、レム・コールハースの言葉(例えば、旧ブログ「Strange Paradise」の記事で引用した「無個性の快楽」等)のほうが、より「真正」で、現代における都市空間の「全体性」に(ロウの「多様性」という曖昧な概念よりも)遥かに接近しているように(僕には)思える*8。実際、レヴィ=ストロースの「多様性」に、より忠実であるのは、むしろ、レム・コールハースである。レヴィ=ストロースの「多様性」については、、そのうち書く(w)。

(追記)

あと、仲正昌樹著「集中講義!アメリカ現代思想―リベラリズムの冒険」の序「アメリカ発、思想のグローバリゼーション」と、第一章「リベラルの危機とロールズ」の第一講「『自由の敵』を許容できるか――戦後アメリカのジレンマ」と第二講「自由と平等を両立せよ!――『正義論』の衝撃」を読んだ(電車の中で)。「自由とは何か?」という主題が通底している。*9

とりあえず、ロールズの政治哲学は、都市モデル化がし易そうだとは思った(w)。別ブログの「アルチュセール」の記事で、「都市モデルがドンドン増えて行く」とは書いたけど、試しに、まっ、あくまで思考実験の一つとして、「ロールズ・シティ」(「公正都市」)なる都市モデル(理想都市のビジョン)を作ってみてもいいのかも知れない。

ロールズの「第二原理」の「効率性原理」と「格差原理」(「無知のヴェール」)は、前に「日食」の記事で書いた、「ミニサム型」と「ミニマックス型」の話にそれぞれ置換できるだろう。また、ロールズが『正義論』で用いたとされる、「厚生経済学という分野で用いられる曲線図表」は、都市理論では、別ブログの「雑記4」や「ノエル」の記事で少し書いた、「Richardson及びEvansの都市サイズ・モデルのグラフ」に置換できる(「厚生経済学」では「資源再配分のやり方が何通りかある」という記述と、別ブログの「雑記3」で書いた「都市の適正規模が5タイプある」という話がよく似ている)かも知れない。

まっ、とは言え、次の第三講「リバタリアニズムコミュニタリアニズム――リベラルをめぐる三つ巴」以降には、ロールズへの諸々の批判が書いてあるようなので、とりあえず、この本を、ガタンゴトンと電車に揺られながら、読み進めるとする(w)。ぼちぼちとな。

(追記2)

ネットで調べてみたら、ロウは1920年生まれで、ロールズ1921年生まれだった。それから、ロウの「コラージュ・シティ」は1978年の出版だけど、前に「ユルバニスム」の記事に貼った、YMOの「Technopolis」も1978年に発売された曲だった。ロールズの「正義論」は1971年の出版。70年代は難しいかも。あと、レム・コールハースの「錯乱のニューヨーク」も1978年。うーん。

ちなみに、旧ブログの「Natural World-5」で書いた、内山田洋とクール・ファイブの「東京砂漠」は1976年。ついでに、沢田研二の「TOKIO」は1980年←歌詞があり得ない(w)。

空を飛ぶ 街が飛ぶ
雲を突きぬけ 星になる
火を吹いて 闇を裂き
スーパー・シティーが 舞いあがる
TOKIO TOKIOがふたりを抱いたまま
TOKIO TOKIOが空を飛ぶ


海に浮かんだ 光の泡だと
おまえは言ってたね
沢田研二、「TOKIO」)

絶対あり得ない(w)。

いや、あり得るのかも。

*1:理想都市」、「悪徳と美の館」、「ユルバニスム」、「ギリシャ型とローマ型」の記事参照(ユートピア

*2:メモ」、「日食」、「ギリシャ型とローマ型」の記事参照(ローマ)

*3:旧ブログの「表記-6」の記事参照(オースマン)

*4:コーリン・ロウ-2」、別ブログの「イオンレイクタウン-2」、「ノエル」、「雑記6」の記事参照(「全体性の消失」)

*5:旧ブログの「表記-6」の記事参照(マレ地区)

*6:旧ブログの「Integral Project-1」、別ブログの「どこでもドア」、「スロー雷雨」、「フロリダ」注釈7の記事参照(「有限」)

*7:別ブログの「マンハッタンのゆくえ(前)」の記事参照(「見晴らせる」)

*8:その旧ブログの「Strange Paradise」の記事で、「インターチェンジの近くにラブホテルが集中する!のはなぜだ」、「都市の動物化?複雑性の縮減?Less is more?経済の原則?愛の営み?計画?無計画?人工都市?自然都市?」と書いたけど、これに対する答えがそのまま、その人それぞれの世界観(都市観)へ分岐するだろう

*9:メモ」の記事参照