「計画」と「規制」

(前回の「生ぬるい都市」の続き)

中央公論2009年8月号、「東京が、「生ぬるい」街になった理由」(磯崎新)より。

 十九世紀の国民国家では社会・経済・家族・都市すべてが「計画」できると考えられました。社会主義的でない国においても都市は「計画」できると考えられ、法制化されました。
 二十世紀の資本主義国家では「規制」です。間接的な制御が原則とされ、これも法制化されている。
 さしあたりパリを前者、マンハッタンを後者の典型としておくと、東京の六〇年代の「発熱」はパリ・モデルの受容とその過激な変成過程であり、八〇年代の「過熱」はマンハッタン・モデルを志向しながら(中略)、土地所有の細分化などの遺制(レガシー・システム)のため「地上げ」に手間どったりして自家撞着した過程だった*1。ちなみに、日本では都市制御システムとしては「計画」と「規制」が二重に使われている*2国民国家的であると同時に資本主義国家であるという近代化のシステム・モデルが輸入され受容された過程のあいまいさがそのまま記録(メモリー)として残って、遺制と重層してもっと複雑に見える。だがはっきりしているのは、主たるシステムは、輸入モデルだったということです。

コンビニ*3もショッピングモール*4も「輸入モデル」である。旧ブログの「Guide to Shopping」の記事参照。

  • 「東京にも可能性があった」

・十九世紀型都市=<都市>(シティ)をパリ・モデルとしました。
・二十世紀型都市=<大都市>(メトロポリス)はマンハッタン・モデルです。
・二十一世紀型都市=<超都市>(ハイパー・ヴィレッジ)は上海・モデルになるだろうと私は考えています。*5

 二十世紀の終わりごろから、個人がそれぞれパソコンを持ち、さらには携帯を持つようになった。全世界的に情報インフラが整備されました。二十世紀は大量交通が都市を変えたのに対して、おそらく二十一世紀は情報のネットワークが都市を変える。*6

(中略)これからも人間は歩いているし、車も走っている。ディテールはそのまま残ります。しかし、その意味を考えると、まったく違った街になっている。

(中略)上海はあまりに急激な変貌を遂げたので、支離滅裂に見えます。三〇〇〇万人の人口を容れて、三〇〇〇軒のミューゼアムを造ると言ったりしています。「計画」し、「規制」すると言っています。(中略)混沌でも無秩序でも事故の連続でもいいけど、すべてが瞬時におこっていて、しかも「発熱」している。これが「交換」です。*7

(中略)私はこれが、二十一世紀の<超都市>の基本条件だと考えています。(中略)東京が乗りそこねたことだけはお分かりいただけますか。

以上っす。

「情報のネットワークが都市を変える」ことに関心ある。どう変わるのか。*8

あと、上記の「計画」と「規制」の話は、レヴィ=ストロース著「親族の基本構造」(1949年)の「基本構造」と「複合構造」の話に似ている。

渡辺公三著「闘うレヴィ=ストロース」(2009年)、第二章「批判的人類学の誕生」より。

  • 交換の規則と自由

 インセストの禁止は人間社会に普遍的に見られる、と同時にそれは文化的な規則として、社会ごとに違った形をとる。インセストの禁止が普遍性と個別性を同時にそなえていることに人類学者は惑わされ、その発生の理由を(中略)生物学的普遍性(中略)に、すなわち「自然」に求めるか、デュルケームのように歴史的出来事の個別性(中略)に、すなわち「文化」に求めるかという二者択一に陥った。しかし、レヴィ=ストロースによればそれは択一の問題ではなく自然から文化への移行の問題なのだ。そしてそれは「交換せよ」という文化的規則の生成の問題なのだ。

(前略)この大著の主題は、序文の冒頭にきわめて簡潔にしめされている。「基本構造」とは親族のカテゴリーが結婚相手を指定する婚姻体系であり、「複合構造」とは経済機構や心理機構が結婚相手を選択するメカニズムを与える体系である。前者は人類学の研究対象となるいっぽう、後者は配偶者が「自由に」選ばれる「文明世界」での結婚制度であるともみなされよう。

(中略)こうして定義される「基本構造」と「複合構造」の複数のモデルを確定し、構造的特性を明らかにすることが論文の主要な目的であった。

(前略)「複合構造」とは一定の親族カテゴリーを禁止するだけで禁止範囲外では「経済機構や心理機構が結婚相手を選択する」自由を与える構造である。こうした親族関係のあり方を「構造」として分析するためにレヴィ=ストロースはふたつの視点を導入する。ひとつはある親族カテゴリーのポジティヴな指定(中略)と、ネガティヴな排除(中略)のあいだに論理的な移行段階を案出すること、もうひとつは、これらふたつの規則のあいだに行為モデルとしての尺度の違いを設定すること、すなわち前者を行為者たちの経験的なレヴェルに近い構造の「機械モデル」と呼び、後者を行為者の経験的なレヴェルを超えた構造の「統計的モデル」としてとらえることである。

(中略)極度に単純化すれば、「基本構造」とは結婚できる相手のカテゴリーにスポットライトがあたっている状態、「複合構造」とは結婚できないカテゴリーだけが暗がりに残され社会の他の部分には光があてられ当事者がそれぞれの基準で選択できる状態にたとえることができる。

そして、「基本構造におけるカテゴリーのポジティヴな指定と複合構造におけるカテゴリーのネガティヴな排除のあいだにどのような論理的関係を見出し、双方を『構造』のもとに包摂できるか」という視点(主題)を提示している。以上です。

(「基本構造におけるカテゴリーのポジティヴな指定」と「複合構造におけるカテゴリーのネガティヴな排除」は、都市制御システムとしての「計画」と「規制」にそれぞれ置き換えられる、の意)

*1:メモ-3」の記事参照

*2:闘うレヴィ=ストロース」注釈11の記事参照

*3:別ブログの「雑記」、「雑記5」、「雑記6」の記事参照(「コンビニ」)

*4:旧ブログの「Kinkyo-2」、「Guide to Shopping」、「Integral Project-2」、別ブログの「イオンレイクタウン」、「イオンレイクタウン-2」、「イオンレイクタウン-3」、「エソラ」(動画)、「ノエル」3の記事参照(「ショッピングモール」)

*5:ユルバニスム」、別ブログの「フロリダ」注釈7の記事参照

*6:社会的な身体」、「社会的な身体-2」、別ブログの「どこでもドア」、「別世界性」、「フロリダ」、「雑記5」注釈7、「雑記6」の記事参照(「情報空間」)

*7:旧ブログの「Integral Project-3」(「上海臨港新城」)、別ブログの「クルーグマン」注釈8の記事参照

*8:闘うレヴィ=ストロース」の記事参照(週刊ダイヤモンド11月28日号)。まっ、現在の「百貨店」や「商店街」に、それほど古い歴史があるというわけでもない。「モダン都市」、旧ブログの「Kinkyo-2」の記事参照