メモ-4

(前回の「明日の田園都市」の続き)

ドタバタしております(想定の範囲内ですけど)。えーと。さて、ところで、前回の記事の注釈19に貼った、NHK爆笑問題の「粘菌」の動画を、ついさっき見たのだけど、かなり面白かった。建築家の黒川紀章がこれ見たら、きっと喜んだだろうと思った。*1

それから、同じく前回の記事に、(エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)を)「読み切るのは、結構、大変なんです(w)」と書いたのだけど、これは「翻訳」のせいかも知れないと思った。例えば、その前回の記事で引用した(同書の)最後の一段落は、3回くらい読まないと(少なくとも僕には)その文意がつかめない(泣)。一応、この本は著作権が切れているので、原文(英語です)をネット上で読むことができるし、山形浩生の翻訳まであるのだけど、まっ、特別、分かり易い(!)という程でもないようだ(汗)。これは「英語」と「日本語」の根本的な違いみたいなものだろう。この問題はル・コルビュジエの本(原文はフランス語)の翻訳にもあって、ノルベルト・フーゼは著書「ル・コルビュジエ」(1976年)*2で、ル・コルビュジエのテクストは「一読しただけでは理解できない箇所が多い。とりわけその翻訳はほとんど不可能ですらある」、「(前略)まさにそれが多義的であることによって、論理では得られないような意味や関係が生じて」いる、と述べている*3。実際にル・コルビュジエの邦訳(本)も読みにくい箇所が結構あるというか、翻訳された日本語(の文体)そのものが古文調(?)なのだ(泣)。

ところで、ジェーン・ジェイコブス著「アメリカ大都市の死と生」(1961年)の(山形浩生の)新訳が出るらしい*4。今あるのは、黒川紀章による翻訳*5なのだけど、ネットで調べてみると、どうも「経済学」界には不評であるらしい。確かに建築界におけるジェーン・ジェイコブスと経済学界におけるジェーン・ジェイコブスが、まるで別人のようだと感じたことはある。新訳は出たら、買ってすぐ読む*6。経済学者の小島寛之*7の「魅力的な都市とは〜ジェイコブスの四原則」(WIRED VISION、2008年1月24日)も面白い。「新しい可能性のありか」を探るヒントが、ジェイコブスにあると思える。あと、社会学者の稲葉振一郎*8がネット上で、ジェイコブスに関する連載をしていたらしい。今はもう読めないけど。残念。

さて、前回の「明日の田園都市」の記事(の追記)で「答え」を書いてしまったので、今回は何を書こうかと悩んだけど、話のテーマとしては、(1)エベネザー・ハワードは19世紀末〜20世紀初頭の「ポストモダンな状況」に対しては、どのようなスタンスに立ったのかについて、(2)「田園都市」の経済(経営)とマルクス主義について、(3)前々回の「モリスの建築論」の記事(とその注釈49)に書いた「マクロ」と「ミクロ」の分化(「二層制のシステム」)と「田園都市」(=「近代都市計画」)の問題について、(4)前回の追記2に書いた「メモ」の記事で書かなかった「(4)」について、(5)前回の追記に書いたハワードの「鉄道的リアリズム」(僕の造語)の現代(と未来)における可能性について、等々、というか、こうやって「箇条書き」をしている時が、じつは一番楽しかったりするのだけど(そして後で気が重くなる、ワラ)、まっ、僕的には、もっとも関心があるのは(5)ですけど。

ついでに、すごい大まかな話(のテーマ)で、「田園都市」の源流は、僕は19世紀(後半)の「アメリカ」にあると思っている*9。更に、都市・建築の「モダニズム」の源流についても、諸説はある(ウィリアム・モリス*10ゴシック・リヴァイヴァル説、建材の工業化や工場建築説、等々)のだけど、これも僕は「アメリカ」にあると思っている。例えば、旧ブログの「Natural World-1」の記事に少し書いたのだけど、建築家のアドルフ・ロース*11は「1893年から3年間、アメリカで暮らしている」し、エベネザー・ハワードも若い頃に「アメリカ」で暮らしている(1872年〜76年)からです。まっ、これの説明は、ほとんど状況証拠的にならざるを得ないのだけど、前に「悲しき熱帯II」の記事に書いたレヴィ=ストロースの「感動的な文章」に近いような「感動」も、彼らにあったのではないかと思っている。ちなみに、エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)に、「アメリカ」の話は、(旧ブログの「Prairie House」に書いた「表紙の裏のJ.R.ローウェルの詩*12」以外は)じつは一言も出てこない…、あれ? まっ、いいか(w)。

ともあれ、上記の(1)〜(5)を、時間を見つけつつ、粛々と(?)書く予定。「アメリカ」説は、少し作戦を練ってみる(w)*13。とりあえず、上記の(読みにくい)「最後の一段落」は、著者のエベネザー・ハワードが、「誰に向けて」この本を書いたかをよく表しているというような話(1)から何か書こうと思っている(と一応、メモっておくw)。

以上です。

明日の田園都市-2」に続く。

(追記)

先月末のニュース。

西武有楽町店、年内にも閉鎖 業績低迷で」(←リンク切れ。コチラへ)
共同通信、2010年1月26日)
 セブン&アイ・ホールディングスが、傘下のそごう・西武が展開する西武有楽町店(東京・有楽町)を年内にも閉鎖する方針を固めたことが、26日明らかになった。消費不況が深刻さを増す中、百貨店分野の業績が悪化しており、不採算店舗を閉鎖し、経営の改善につなげる。繁華街の銀座に近い有楽町店はほかの百貨店やカジュアル衣料「ユニクロ」など低価格の衣料品専門店などとの競合が激しかった。*14

驚いた。というか、NHKの夜のニュースで、トップニュースで流れたので驚いた(「国会」のニュースをさしおいて)。年配の世代にとって、有楽町は、特別な場所であるらしい(←動画*15)。

初田亨*16著「図説 東京 都市と建築の一三〇年」(2007年)、第一章「近代への助走」より。

 銀座煉瓦建設の直接の契機となったのは、一八七二年(明治五)二月の大火である。この大火が起きた時、日本最初の鉄道建設に向けて新橋―横浜間では最後の追い込みに入っており、この年の九月には開業式が行われている。
 銀座は新橋駅の正面にあたり、しかも江戸時代から続く東京随一の繁華街である日本橋、および開港場としての築地、さらに鉄道を通して外国とも直接つながる横浜にも通じている。

(かなり中略)そんな銀座煉瓦街も、明治の中頃にはにぎわいを示すようになっている。(中略)銀座煉瓦街が大きく発展していくのは、その後のことである。

同書、第三章「銀ブラを生んだ商店街」より。

 銀座の街をそぞろ歩くことも、大正時代には「銀ブラ」へと受け継がれていく。「銀ブラ」は、明治時代には「銀座のブラ」などといって、銀座をぶらぶらする遊民や地回りの意味で使われていたが、大正時代には散歩を意味する言葉として定着していったのである。

(かなり中略)小説家の佐多稲子は、商館を辞めて自分が勤めていた丸善へ移ってきた英文タイピストとの銀ブラについて、「店の帰りに銀座を散歩している。例によって足早な彼女について私もさっさっと歩いている。店先を覗くというようなことは殆どしない。新橋のたもとまで歩いていった時、彼女は西洋人の男のようにくるりと先ず頭をまわして、『カム・バック!』と、しゃれた風に言ってあとがえりをした」(『私の東京地図』)と語っている。(中略)銀座の街がもつ雰囲気そのものを楽しんでいたことがわかる。

 大正時代も終わり頃になると、街歩きを楽しむサラリーマンが急激に増えてくる。サラリーマンの多くは、明治以降、各地から東京に流入してきた人々である。新しく東京にやってきた人々は、古い事物に郷愁をみるよりも、新しいことに憧れをいだくことのほうが多かった。

(中略)銀座の出入り口にあたる有楽町駅では、定期券以外の乗降客が毎日二万人近くもいたという。(中略)有楽町駅が銀座の出入り口として、待ち合わせに使われるようになっていった。

 一九二五年の調査によれば(今和次郎考現学』)、日中の銀ブラを楽しむ人の数は、男性のほうが女性よりも多く、約二倍に達している。また年代的には、男性の場合二〇代、三〇代が多いのに対して、女性は一〇代と二〇代が多い。(中略)また、銀座を歩く男女で共通していることは、普段着の人が少なく、九割までが着替えて外出していることだ。街歩きを楽しむ場合でも、よそゆきに着替えて銀座に出てくる人が多かったのである。(後略)

時代をややさかのぼりすぎたかもな(w)。この本は面白いので、またそのうち書く。百貨店の衰退については、「闘うレヴィ=ストロース」(「都市空間の(大型)専門店化が進行している」)、別ブログの「モーション・タイポグラフィ」、「イオンレイクタウン」の記事参照。

あと、先週、「週刊ダイヤモンド 臨時増刊 THIS IS JR 2010年 2/22号」(2010年)を買って読んだ。「ルミネ」と「アトレ」は百貨店を上回る一大勢力となり、エキナカコンビニエンスストアの「ニューデイズ」は日販(一日当たりの一店舗の売上高)で「セブンイレブン」を抜いたらしい、驚いた。あと、小島英俊著「鉄道という文化」(2010年)も買った。ぼちぼち読む(電車の中でw)。

(追記2)

一応、上記の(5)の「鉄道的リアリズム」に関しては、前に別ブログの「エソラ」の記事に書いた、「(前略)「ファスト風土」が生じた原因が都市の交通問題にあるならば、交通の流れを整える(変える、利用する)ことによって(後略)」での「利用する」が、(旧ブログの「Integral Project-3」の記事で引用した)エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」の一節の「これらの手段を十二分に利用し、(中略)その計画に即して、われわれの都市を建設すべきときが来たのである」での「利用し」と全く同じ意味である(または「反復」している*17)、ということ。ハワードが「鉄道」を利用したように(更に、ル・コルビュジエが「自動車」を利用したように)、僕は都市の「効率性」の原理(空虚な形式、不変項*18)を利用することを企てている、ということです。そしてこれは「闘うレヴィ=ストロース」の記事の追記や「モダニズム」の記事の追伸で書いたように、「公正」で「正義」に適っていて、そして「多様性」を擁護するといった真正な(神聖な)目的のために利用されるのである、ということです。大まかな流れはこういうことで、別に「鉄道って何かいいよね」と言いたいわけではないよw、念のため。(とは言え、会津鉄道会津線は、超オススメw)

あと、今日(昨日)、竹内洋著「社会学の名著30」(2008年)を買った。これを読んで、今後は全「社会学」の「知ったかぶり」をする所存です。*19

同書、第一章「社会学は面白い…?」(P.19-20)より。

(前略)姫岡勤先生(中略)は、こんなコメントをした。「PTAで活動している人々は理念で行動しているのかね。実際のメカニズムを研究しなければ……」。先生は、理念、つまり公式的見解それ自体の研究を否定していたわけではないが、それだけでは社会学的研究ではないということをやんわり指摘したのである。社会構造の公式的解釈というファサード(建物の正面)の背後にある現実の構造を見通すことが社会学だといったのである。
(中略)たとえば、恋愛結婚(愛しあっての結婚)。愛はいつでもどこでも燃え上がり、抗うことができない感情だとされている。しかし、(中略)実際の結婚を調べてみれば、恋愛結婚は階級や所得、学歴、人種的・宗教的背景などの回路の中でおこなわれている。(中略)大概のところは階級や学歴の似たもの同士なのである。「キューピッドの矢が一瞬のうちに放つ矢は、(中略)非常にはっきりとした回路の中を飛んでいく*20」。*21

ひどい学問です(w)。でも、真の社会学者なら(ウォーホルのように)「So what? (それがどうした?)」と答えるだろう。

*1:機能から構造へ-3」の記事参照(「権力者の宮殿はどこにもない」、「市民のために、市民によってつくられた市民の都市」、黒川紀章

*2:モダニズム」の記事参照

*3:「(前略)まさにそれが多義的であることによって、論理では得られないような意味や関係が生じてくる。個々の言葉の意味領域は互いに接触、重層して高められ、それによってこのテクストには、各部分の意味を理解する前に読者を同意させるようなパトスがある。」(P.20)、「ル・コルビュジエの根本思想がもっとも明瞭に表れている著作は、同時に彼のもっともよく知られた著作でもある。しかし外国人にとっては、その題名からしてすでに難解である。フランス語で『Vers une architecture』と題されたその著作は、二つあるドイツ語版の一方では『Kommende Baukunst(将来の建築)』と訳され、もう一方のドイツ語版では『Ausblick auf eine Architektur(建築への希求)』と訳されているのである。どちらの訳も可能ではあるが、全体としてフランス語原題のニュアンスや微妙な動きを伝えているとはいえない。なぜならこの題は、とりわけ戦いの叫びとして読むことができるのである。すなわち、『Hin zu einer Architektur!(建築をめざして!)』。」(P.21)。日本語版は「建築をめざして」(初版1967年)。一応、著者のノルベルト・フーゼはドイツ人である。

*4:【山形浩生氏インタビュー】10年ぶりに宣言! ジェネラリスト的な教養をふたたび」(ソフトバンク ビジネス+IT、2009年12月28日)より

*5:「日本の<路地>の復活が、未来都市の鍵になる。(中略)当時、たまたま都市学者ジェーン・ジェコブスの『アメリカ大都市の死と生』という本を読んだ。それは路地のコミュニティ文化を重視しないとアメリカの大都市は死んでいく、と警告を発するものだった。まさに私と同じ考えを持つ仲間だと思って、私はすぐに彼女に手紙を出した。結局私はこの本を日本語に翻訳し、出版した。」(黒川紀章著「都市革命―公有から共有へ」(2006年)、P.86)

*6:別ブログの「ノエル」5(「最初の5ページで挫折した」)、「フロリダ」、「雑記6」注釈6の記事参照(ジェーン・ジェイコブス)

*7:闘うレヴィ=ストロース」の記事参照

*8:十九世紀の罠」、「モリスの建築論」の記事参照

*9:「エベネザー・ハワードは、(中略)一八七二年から七六年までのあいだ、大火後の再建期にあるシカゴに彼は住んでいた。そこで彼は、(中略)社会構造が開放的なこの地での生活を通じて、革新的なアイデアを持つ人びとが受け入れられ、成功しうることを知った。(中略)その後ハワードは、産業化の最中でヴィクトリア時代の自由放任的な資本主義が隆盛していたロンドンに戻った。(かなり中略)彼は、実現可能で、実践的で、事実上必要とも言うべき、国土の再編そのものを提唱していたのである。(中略)彼の信念は、イギリス的なものではなく、明らかにアメリカの開拓地で生命を宿したものである。」(ジョナサン・バーネット著「都市デザイン―野望と誤算」(1986年)、P.89-95)。一応、著者のジョナサン・バーネットはアメリカ人である。

*10:モリスの建築論」、旧ブログの「はちみつ石の景色」の記事参照

*11:アドルフ・ロース著「装飾と犯罪」(1908年)はここ参照。少し引用すると、「(前略)そして[19世紀の]人々は、ショーケースの間を行きつ戻りつしながら、己の無能さを恥じるのである。「各時代にはそれぞれの様式があった。なのに我々だけが様式を拒絶しなければならないのか」と。様式とはすなわち装飾を意味する。そこで私は言った。泣くのをやめよ。新しい装飾を生み出すことができないことこそ、我々の時代が偉大である証拠なのだ。」「ボロロ族の装飾」の記事参照。あと、「モダニズム」、「モリスの建築論」の記事参照(「「モダニズム」では、過去の全ての「様式」が否定の対象となる」)

*12:「新しい仕事は新しい義務を教え/時は古いものを/すばらしい未知のものに変える/真理におくれまいとするものはつねに/上をむいて前へ進まねばならぬ/見よ われらの前には/真理のかがり火が輝いている/われらはわれら自身/巡礼者でなくてはならぬ/われらのメイフラワー号を乗りだし/すさまじい冬の海をとおり大胆に舵をとれ/未来の門を血にさびた鍵で/開けようとするな」

*13:19世紀(後半)の「アメリカ」とは、つまり、「シカゴ万国博覧会1893年)」と「高層建築(摩天楼)」と「大草原(プレーリー)」に象徴される景色のこと。

*14:「ファストファッション」に負けた西武有楽町 閉店は銀座カジュアル化の象徴」(J-CAST ニュース、2010年1月27日)、「西武有楽町店閉鎖 後継テナントいるのか」(前同)も参照。「闘うレヴィ=ストロース」、「H&Mモデル」の記事参照(「H&M」)。あと、「西武有楽町店跡地、ヤマダ電機が出店に意欲」(NIKKEI NET、2010年2月9日)も参照

*15:有楽町で逢いましょう」(フランク永井、1957年)。ついでに、別ブログの「抹消された「渋谷」」の記事参照(「渋谷で5時」、1996年、動画

*16:モダン都市」の記事参照

*17:「反復は、反復する対象に何の変化ももたらさないが、その反復を見る精神に何らかの変化をもたらす。ヒュームによるこの有名なテーゼは、われわれを問題の核心に連れていく。」(P.119)、「すべての過去はそれ自体として保存されているのだが、その過去をわれわれのために救い出すには、どうすればよいのだろうか。(中略)プルーストベルクソンを繰り返し、引き継いでいるのは、その点においてであるといえる。」(P.140)、「過去それ自身は、欠如による反復であり、現在におけるメタモルフォーゼによってなされる別の反復を準備するものである。」(P.148、ジル・ドゥルーズ著「差異と反復」(1968年))。というか熊野純彦著「現代哲学の名著」(2009年)第三章「時間・反復・差異」からの孫引き。「メモ」の記事参照

*18:明日の田園都市」追記の記事参照

*19:闘うレヴィ=ストロース」の記事参照

*20:ピーター・バーガー著「社会学への招待」(1963年)

*21:「計画」と「規制」」の記事参照(「基本構造」と「複合構造」)

明日の田園都市

(前回の「モリスの建築論」の続き)

年明けてから、何かドタバタしております。

前回の記事を今、読み返してみたら、「注釈」がすごく長くて驚いた。本文より長いかも(ワラ)。こういう時は、記事を2つに分けたほうが読み易いだろう。今後、気を付ける。

では、えーと、「田園都市」(「庭園都市」とも訳す*1)については、これまでにも、旧ブログの「写真銃-2」、「クリスタルパレス」、「都市と工場-2」、「Natural World-1」、「Natural World-2」、「Prairie House」、「Integral Project-3」、別ブログの「」、「ノエル」4、そして、本ブログの「メモ」、「ギリシャ型とローマ型」、「メモ-3」等の記事で言及してきたのだけど、とりあえず、「田園都市」についての簡単な解説(まとめ)を先に引用しておく。

奇想遺産〈2〉世界のとんでも建築物語」(2008年)、「田園都市レッチワース」(松葉一清)より。

英語で「ガーデンシティー」。その訳語が「田園都市」。自然と人工物の共生を好むのは地球上共通だが、とりわけ日本と英国は筆頭にあげられる。その英国ロンドンの書記だったエベネザー・ハワードは、米国での体験も踏まえて田園都市構想を提案する。19世紀末*2のことだ。

職住近接、すべての生活がほぼ徒歩圏でまかなえ、農村地帯に囲まれた安寧の都市の提案。その発想は、低劣な住環境に封じこまれた労働者*3が政治的不安定の要因だった、当時の社会で歓迎された。そしてハワードはロンドンの北約50キロのレッチワースに、田園都市の理想を具体化する。(Google Map

(中略)暮らしに重きをおくハワードの田園都市の思想には、世界中から共鳴者が相次いだ。資本主義と社会主義の激突が案じられる世相にあって、現実調和的な運動への支持である。(中略)日本では、渋沢栄一小林一三*4ら戦前の企業家が注目し、田園調布や阪急沿線の住宅地開発に乗りだした。だが単なるベッドタウンにとどまり、沿線の拡大とともに長時間通勤の元凶にもなってしまった。

プロレタリア作家、宮本百合子の父で重鎮建築家だった中條精一郎は「英国の田園レッチウォルスに労働者住宅問題の先駆たる実況を視察」し、「我国の所謂(いわゆる)田園都市なる計画は労働者救済の目的に非ずして投機者流の餌食」と断じた。大正5年(引用者註・1916年)の一文だ。

レッチワース創設から13年目、日本の限界を見通した悲しい先見の明だった。

まっ、大体こんなのです。建築出身の僕が「田園都市」になぜ関心を抱いているのかと言うと、単純にそれは僕が「ベッドタウン」(ニュータウン)育ちだからです(w)。別ブログの「雑記3」の追記の記事参照*5。ついでに、僕が今、「ニュータウン」の仕事(主に「計画」と「設計」)をしているのも、同じ理由です。元々は、僕は主に「商業施設」の仕事をしていたのだけど、その業界の「保守的」な体質に辟易して、人生の舵を切ったのだけど、じつは「ニュータウン」業界のほうがもっと「保守的」だった(泣)、という何とも言えない人生設計ではあるけど、ケインズこの有名な一節(これの「経済学」を「都市工学」に読み換える)を座右の銘に(?)、ぼちぼち駒を進めてます。

えーと。ところで、エベネザー・ハワードと(前回書いた)ウィリアム・モリスとの間には、10数年くらいの時間差があって、19世紀末以降のヨーロッパは、緩やかに社会主義化が進んだ時代でもあった*6。例えば、社会主義社会改良主義)を掲げた政党が徐々に議席を増やし、イギリスでは1906年に「労働党」が、ドイツでは1912年に「ドイツ社会民主党」が第一党(与党)となっている。まっ、あまり詳しくないけどな。ネットで調べつつ書くと、建築では、「ドイツ社会民主党」の社会主義的な政策によって、数多くの「ジートルンク」(公営団地)*7が建設された。1919年には(同政権によって)「バウハウス*8が設立された。また、社会主義政権下のオーストリアでは、1927年に「カール・マルクス・ホーフ」が建設された(建物の名前がすごい*9)。ただ、その一方で、1891年にローマ法王レオ13世は、回勅「レールム・ノヴァルム」で、19世紀末のヨーロッパが直面している諸問題を、「資本主義の弊害と社会主義の幻想」と表現した(詳しくはここ参照、宇沢弘文)。まっ、要するに、社会主義化が現実化していく一方で、なかなか理想通りにはならない、しかも、19世紀後半のイギリスは、慢性的な「不況」(ある意味、今の日本に似ている状況)で、そこから一向に抜け出せない、そんな状況だったのです(ちなみに、ドイツでは1919年に「国家社会主義ドイツ労働者党」が結成され、1933年に政権を取る*10)。

では、今日の本題、

エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)より。

「明日の田園都市」は、冒頭の二つの短いエピグラフの後、このようにして始まる。

党派感情が強く、また社会的・宗教的の議論が鋭く争われる今日においては、その党派がなにであれ、あるいはその社会学上の色合いはともかくとして、万人が完全にまったく賛成する国民の生活と福祉に重大な意味をもつ、ただ一つの問題を発見することがむずかしいとは誰にも考えられることである。

禁酒運動*11を論じれば、あなたはジョン・モーレイ氏からは、それが奴隷解放運動以来の最大の道徳運動だと聞かされるだろう。しかしブルース卿は「酒の商売は年々国庫に四四万ポンドの歳入を貢献し、それがじっさいに陸海軍を維持し、そのほかに数千の人たちの雇用を提供していること、絶対禁酒主義者といえども酒類販売人に多くのお蔭を被っている(中略)」とあなたに思いおこさせるだろう。

阿片貿易を論ぜよ。一方ではあなたは阿片が中国人民の志気を急速に破壊していると聞くが、他方ではこれはまったくの幻想であって、中国人は阿片のお蔭でヨーロッパ人にはまったく不可能な仕事をすることができるということを聞くのである。イギリス人は食物については、このいやなにおいがちょっとにおっても軽蔑するのであるが。

宗教上と政治上の問題はあまりにもわれわれを敵意ある陣営に分けてしまう。

そして静かな・公平な思想と純粋の感情が、行動の正しい信念と堅固な原則への前進に欠くことができないその王国において、戦闘の騒々しさと戦う軍勢の足掻きが、たしかにすべてのものに生命を吹きこむ心からの真理愛と愛国心よりも、より一層強制的に傍観者に提示されるのである。

田園都市」という言葉から、長閑(のどか)なイメージを持たれるかも知れないけど、(この本の)中身は結構、濃いんです(w)。

それに、はっきり言って、この本を読み切るのは、結構、大変なんです(w)。だが、そこがいい。いわゆる「建築への意志」がある本(他にも、ル・コルビュジエ著「ユルバニスム」(1925年)*12クラレンス・ペリー著「近隣住区論―新しいコミュニティ計画のために」(1929年)*13ケヴィン・リンチ著「都市のイメージ」(1960年)*14等)は得てして、空虚な形式(共時性、不変項*15)を導入するので、通時的に読み切ることに対して、どうしても難儀さを感じてしまうのかも知れない。旧ブログの「Airplane House」の記事参照。

まっ、ともあれ、上記の「明日の田園都市」の冒頭(「著者の序論」)の引用から、ハワードは「ある意味でポストモダンなその地点から出発」*16した、とは言える。もちろん、「ポストモダンな状況」の定義にもよるだろうけど、では、その状況から、ハワードは「新しい秩序を築くことを可能にするような諸原理をどのようにして」*17見出したのだろうか。

「明日の田園都市-2」に続く

メモ-4」に続く。

(追記)

最近、何かドタバタ気味なので、書ける時に書いておく(w)。

上記の答えは、第一に、旧ブログの「Integral Project-3」5の記事で書いたように*18、ハワードは「鉄道的リアリズム」(僕の造語)を獲得した、ということです。小生意気に、レヴィ=ストロースっぽく言えば、「鉄道」が「自然」(物理的な空間)と「文化」(生活一般)の「二つの領域のつなぎ目」(不変項)をなしている、ということです。

第二に、前に「メモ」の記事で書いたように、「田園都市」には「魅力」がある、ということです。そして、この「魅力」とは(当時のイギリスの)人々に広く共有されていて、文化的な連続性のあるもの(または「神話」?)です。

第三に、えーと、すごい大まかに言うと(w)、その「第一」と「第二」の織りなす世界の多様性から、ハワードは発明的に一つの良いモデルを創造した、ということです。でも、じつはここが一番の謎で、ハワードはどのようにしてこのモデルに至ったのかは、ハワード著「明日の田園都市」を何度、読み返してみても、よく分からない。可能性としては、いくつか想像はできるのだけど(そのうち書く)、別ブログの「アルチュセール」や「雑記6」で書いたように、ハワードも「カチャカチャと都市形態と都市形態を組み合わせ」ていたのかも知れません(w)。

以上です。

(追記2)

メモ」の記事で書かなかった「(4)」は、そのうち書く。

(追記3)

ネットワーク構築、粘菌に学べ=効率、首都圏の鉄道網並み−北大など
時事ドットコム、2010年1月22日)
アメーバ状の単細胞生物である粘菌は、餌のある場所に体を広げ、養分などをやりとりする。北海道大などの研究チームが、首都圏の地図を模した容器に粘菌を入れて実験したところ、実在の鉄道網に似た効率の良いネットワークを形成することが分かった。粘菌の行動をヒントに、限られたコストで最適な輸送網を見いだせる可能性があるといい、論文は22日付の米科学誌サイエンスに掲載された。
科学技術振興機構の手老篤史研究員や北大の中垣俊之准教授らは、粘菌のネットワーク成長が(1)利用の多い経路が発達し、少ないと消滅する(2)経路の総距離はなるべく短くする(3)どこかが切られてもいいように迂回(うかい)路を確保する−特徴を持っていることに着目。ネットワークの構築コストと効率を評価する理論モデルを編み出した。(後略)*19

*1:別ブログの「どこでもドア」注釈4の記事参照

*2:十九世紀の罠」、「十九世紀の罠-2」、「モリスの建築論」の記事参照

*3:旧ブログの「表記-5」の記事参照。一応、その記事の絵はギュスターヴ・ドレこの絵(ロンドン、1872年)です。ついでに、同画集のこの絵この絵も参照。後者の絵はよく都市計画の本に載っている。

*4:モダン都市」の記事参照

*5:別ブログの「」、「柏 マイ・ラブ」、「柏から考える」の記事も参照

*6:モリスの建築論」注釈4の記事参照

*7:旧ブログの「ワイゼンホフ-1」、「ワイゼンホフ-2」、「ワイゼンホフ-3」の記事参照(「ワイゼンホフ・ジードルング」)。あと、「木賃アパートと団地」、「闘うレヴィ=ストロース」注釈11も参照

*8:旧ブログの「グローバリゼーション-3」の記事参照

*9:十九世紀の罠」、「H&Mモデル」、「モリスの建築論」の記事参照(カール・マルクス

*10:「われわれはあまりよく知らないことですが、ナチス発生の秘密をハイエクは解き明かしています。(中略)「ファシズム国家社会主義中産階級社会主義である」という表現は真実を語っているとハイエクは言います。丸山真男ヒトラーを支持したのは小売商人などだといいましたが、その点は正しいわけです。(中略)初期のナチス運動に参加した下層党員(中略)の多くは没落していく中産階級で、かつてはよい暮らしをし、よい時代の面影を残す住まいや家具などの環境に住み続けている人も多かった、といっています。中産階級に育ち、家にはそれなりの家具があり、ちょっとした本もある。しかし、収入は何の教養もない産業労働組合に属している社会主義政党が守る組合員の何分の一しかない。この中産階級の憤懣やる方なく、共産党を追い出せと主張したヒトラーを支持したということです。(中略)国家社会主義が勢力を強めたもう一つの要因として、社会主義教育で利潤への軽蔑を植えつけられていた若い世代が、リスクを伴う独立の職業に就くことではなく、安全が約束されているサラリーマンの地位に群がり、(中略)これが国家社会主義の本質だと指摘しています。(中略)旧労働社会主義マルクス主義は一九世紀的民主主義、自由主義的社会で育ち、(中略)どんな妥協をしても社会主義を確立すればすべての問題が解決すると信じていたお人好しなところがあったに対して、(中略)社会主義が進む社会で育ったナチスファシストの若い連中は統制経済を知っているから(中略)「問題を民主的に解決できるという幻想はまったく抱いていなかった」といいます。それは「多様な人々の要求を序列化するという問題に対して、人間の理性なり、平等の公式なりが、その解答を用意できるという幻想を、およそ信じていなかった」ということです。だから怖いのです。」(渡部昇一著「自由をいかに守るか―ハイエクを読み直す」(2008年)第9章「保障と自由」)。旧ブログの「誤算-1」、「Natural World-4」(動画)、「Natural World-4の補足」、「World of Tomorrow」、別ブログの「雑記3」(動画)の記事参照。(一応、レヴィ=ストロースハンナ・アーレントはそれぞれ、これ(上記のハイエク)とは異なる見解を示している)

*11:禁酒運動は、近代の日本でもあった。ここによると、「近代日本で禁酒運動が隆盛したことを知る人は少ない。(中略)禁酒運動は日本でも宗教対立や政治活動にまで発展し、未成年者飲酒法の制定を成功させた大事件であった。」別ブログの「フロリダ」、「雑記5」の記事参照(「ビールがうまい」)。ビールはうまい。

*12:旧ブログの「Natural World-2」、別ブログの「クルーグマン」の記事参照

*13:旧ブログの「Natural World-2」、「Airplane House」、別ブログの「マンハッタンのゆくえ(前)」の記事参照

*14:悲しき熱帯II」、「アルンタ族の風景」、「ジャージーシティ」、「ロサンゼルス」、「環境のイメージ」、「環境のイメージ-2」、別ブログの「雑記5」の記事参照

*15:「(前略)人類学的研究に、歴史とは異なった共時性のレヴェルで作動する構造という「不変項」を導入しなければならない、という主張でもあった。不変項は、新秩序の形成や秩序の崩壊という歴史的・通時的「変化」とは異なる多様な共時的「変換」の可能性をはらんでいる。」(渡辺公三著「闘うレヴィ=ストロース」(2009年)第三章「野生の思考へ向かって」)

*16:十九世紀の罠」の記事参照(「ある意味でポストモダンなその地点から出発するのが真正のモダニズムであるということになった。」、浅田彰

*17:メモ-2」の記事参照(「新しい秩序を築くことを可能にするような諸原理をどのようにして見出せるのか」、レヴィ=ストロース

*18:旧ブログの「Integral Project-3」5の記事で、「ル・コルビュジエの自動車に対する考え方は(ハワードと)ほぼ同じなので、自動車に関する引用・説明は省きます(えっ?)」と書いているけど、ル・コルビュジエは1925年に「自動車は都市を殺してしまった。自動車は都市を救わねばならない」と述べている(暮沢剛巳著「ル・コルビュジエ 近代建築を広報した男」(2009年)第4章)。これを僕は「自動車的リアリズム」と呼んでいる。常識的に考えるならば、この発想はおかしい(ハワードもル・コルビュジエも)。天と地がひっくり返っている。だから、「コペルニクス的転回」なのである。

*19:爆笑問題のニッポンの教養」(NHK、2009年12月15日放送、動画

モリスの建築論

(前回の「H&Mモデル」の続き。というか、前々回の「モダニズム」の続き。というか、時系列的には(建築史的には)、更にその前の「十九世紀の罠-2」(「モダニズム」では、過去の全ての「様式」が否定の対象となる)の続き)

片木篤著「アーツ・アンド・クラフツの建築」(2006年)*1「モリスの建築論」より。

肝要なのは「単純で誠実な」「一般常識」なのであってゴシックという様式ではない。*2

――ウィリアム・モリス、「The Revival of Architecture」、1888年

新しい建物が建てられる時には、一般常識を用い、気取らずに、土地の良い材料を使って建てるならば、それは古い家々と一緒になって、真にその土地から生まれ出たものとなるだろう。*3

――ウィリアム・モリス、同上

(前略)モリスはヴィクトリア朝の醜い環境を糾弾し、「全ての醜さは、現在の社会形態が我々に強要している生得倫理の下劣さの外部への表現である」と言う。元凶は資本主義社会における工場制機械生産である。(中略)中世のクラフトマンシップをもう一度取り戻そう。そうすれば中世のように「全ての職人は芸術家」となり、今まで分けられていた工芸と芸術が再び統合され、「芸術は、人間の労働の喜びの表現である」ことに戻るのではないか。それには、我々はかつての職人がそうであったように、材料、構法、便利さに「誠実(honest)」でなければならない。だが、これだけではまだ十分ではない。「作る者にも使う者にも喜びとなるような、民衆のために、民衆によって作られる」芸術には、「単純で誠実な生活」の前提が必要となるからである。芸術を再生させるためには社会を変革しなければならない。かくしてモリスは社会主義*4へと傾倒していくのである。

「かくしてモリスは社会主義(=「マルクス主義*5)へと傾倒していくのである」のです。

ウィキペディアの「疎外」の項の「マルクスによる概念」より。

近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、人間と自然が分離し、資本・土地・労働力などに転化する。それに対応し本源的共同体も分離し、人間は資本家・地主・賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって働く喜びを失わせ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者にとって外的・敵対的なものとなっていく。(後略)

両者(「モリスの建築論」と「マルクス主義」)はそっくりなのです。以上です(w)。

…いや、さすがに早すぎるな。

上記の「疎外」と関連して、うーん、相田武文+土屋和男著「都市デザインの系譜」(1996年)*6第6章「オースマン」より。

(前略)このような変化の時代(引用者註・一九世紀)に、人々の都市に対する見方の変化を、フランソワーズ・ショエは指摘している。それによれば、かつてのように都市を生まれながらにして与えられた環境としていたときには、そこの習慣や約束事を自然なものとして受け入れることができ、だから理想を形として表現し、それを象徴として意味を読み取ることも可能であった。ところが一九世紀になって、異郷者が押し寄せ、内的にも新たな見知らぬ階層が生まれ、都市に意味を読ませる共通の言語が失われてしまった。人は都市を外的なものとして、精神的には「無縁のもの」と考えるようになった。つまり、都市は客観的に批判しうるような、「批評的(クリティカル)な考察」の対象になったのである。(後略)*7

うーん、(19世紀の)都市と「疎外」の関係について、何か引用しようと思ったのだけど、ややピントがズレているかも知れない(泣)。ついでに、この本の同章で著者は、オースマン*8ヴァルター・ベンヤミンを対比させている。少しだけ引用すると、「この時代に都市の把握のされ方は、オースマンに表されるような体系的でマクロなそれと、遊歩者に表されるような個人的でミクロなそれとの、両極に分化したのであった。」*9

とりあえず、一旦ここまで。

明日の田園都市」に続くー。*10

(追記)

レヴィ=ストロース著「悲しき熱帯I」(1955年)*11第2部「旅の断章」より。

十七歳になろうとする頃、私は、休暇中に知り合った或る若いベルギー人の社会主義者(今はベルギー大使として外国に駐在している)にマルクス主義の手ほどきを受けた。この偉大な思想を通して、私はカント*12からヘーゲルに至る哲学の流れとも初めて接したが、それだけに一層、私はマルクスの本を読むことに夢中になった。一つの新しい世界が、私の前に開けたのであった。その時以来、この熱中は一度も変質したことはなく、私は何か社会学民族学の問題に取り組む時には、ほとんどいつも、あらかじめ、『ルイ・ボナパルトの霧月(ブリュメール)十八日』や『経済学批判』の何ページかを読んで私の思考に活気を与えてから、その問題の解明にとりかかるのである。しかし、私にとっては、マルクスが、歴史のかくかくの発展を正しく予見したかどうかを知ることが問題なのではない。マルクスは、物理学が感覚に与えられたものから出発してその体系を築いていないのと同様、社会科学は事象という次元の上に成り立つのではないことを、ルソー*13に続いて、私には決定的と思われる形で教えてくれたのである。社会科学が目的としているのは、一つのモデルを作り、そのモデルの特性や、そのモデルの実験室*14での様々な反応の仕方を研究し、次いで、これらの観察の結果を、経験できる次元で起こる、予見されたものからひどく隔たっている場合もありうる事柄の解釈に適用することなのである。(後略)

*1:モダン・ライフ」の記事参照

*2:十九世紀の罠-2」の記事参照(「そのなかでゴシック様式は国民的様式であり…」)。ちなみに、レヴィ=ストロースは、「悲しき熱帯I」第2部「旅の断章」で、「(前略)私の受けた哲学の教育は、ゴティック様式(引用者註・ゴシック様式)がロマネスク様式より必然的に優れており、ゴティック様式のうちでは、プリミティブよりフランボワイヤンの方がより完成されていると言って憚(はばか)らないような、美術史の教育に比せられるものであった」と述べている。旧ブログの「Flamboyant」()の記事参照(動画動画)。ロマネスク様式については、そのうち書く。一応、ロマネスク様式→ゴシック様式(プリミティブ→フランボワイヤン)は歴史順です。この一文でレヴィ=ストロースは、西欧の「累積的」歴史観を(暗に)批判している。

*3:旧ブログの「はちみつ石の景色」の記事参照(「まるで土壌から生まれ出たかのよう」)

*4:「資本主義的市場経済が発展していく中で分業が進行し、人々がやることがバラバラになっていく。(中略)こうした分業による専門化によって、ものづくりの効率、つまり生産性が上がり、人々の生活水準が上がっていく。けれでもその反面、分業の副作用というものもある。スミスは分業の結果、人々の仕事が単純になり、(中略)人々はどんどん愚かになっていくのではないかと危惧しています。のちにヘーゲルマルクスは、それはただ単に知性の衰退・愚鈍化というにとどまらず「疎外」(人間性の喪失)、そして社会的な連帯の解体というべき事態なのではないか、と考えるわけです。(中略)一九世紀の(中略)社会主義者たちが市場経済の展開に対して覚えた危惧は、一つには市場経済の中での分業の展開による社会の断片化・連帯の喪失であり、いま一つは、(中略)市場経済が同時に大きな経済的不平等をもたらす、ということでした。(中略)社会主義とは、おおざっぱにいえば、主に社会における富の分配を平等化して、そのことを通じて、弱りつつある社会的な連帯を再生しようという発想です。」(稲葉振一郎著「社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか」(2009年)第9講「デュルケムによる近代の反省」)

*5:十九世紀の罠」の記事参照(「ある意味でポストモダンなその地点から出発するのが真正のモダニズムであるということになった。マルクスその人も、そういう場所から出発したはずです。」、浅田彰)。そして、社会学者の稲葉振一郎は、「社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか」(2009年)第10講「ウェーバーマルクス主義」で、「マルクスマルクス主義は「モダニズムの先駆け」の中でも飛び抜けて重要な意義をもつ存在です。(中略)有名な「上部構造」と「下部構造(土台)」という言葉づかいは(中略)経済(中略)が社会の土台、下部構造であって、政治とか法とか道徳とか宗教とか学問は、その基礎の上に立てられる建物、上部構造のようなものだ、というのがその趣旨です。(中略)つまり、自由な人間精神の活動の所産であると思われている学問、文化、思想は、実は根本的には経済、技術、人間の物質的な生活によってそのあり方が規定されてしまっている、というわけです。モダニズム時代精神が、自分で自分のことを自由で自立していると思っている人間の精神を、気づかないところで根底的に規定している「形式」についての反省にあるとすれば、マルクス主義の考える「下部構造」もまたそういう「形式」の一種と捉えることはできそうです。実際、モダニズムの時代の思想や芸術に、マルクス主義は大きな影響を与えています。」と述べている。

*6:コーリン・ロウ」、「コーリン・ロウ-2」、「コーリン・ロウ-3」の記事参照

*7:旧ブログの「Computer City」の記事参照(「都市への愛を語るべきかどうか」)

*8:旧ブログの「表記-6」の記事参照

*9:「近代社会の特徴は都市の巨大化であり、都市の規模が前近代のそれと決定的に違ってしまった。(中略)都市の全体構成と街区や地区の都市計画が分離した。都市が大きくなれば、その全体の構成は地理とダイアグラム(考え方などをわかりやすく図解したもの)でしか表現できないので、全体像は概念的、抽象的にならざるを得ない。(中略)近代の都市は、その全体と部分の関係が一体で処理できないスケールになってしまった。(中略)全体は全体の論理、部分は部分の論理でとらえる二層制のシステムが近代都市計画の特徴になった。」(日端康雄著「都市計画の世界史」(2008年)序章)。「ギリシャ型とローマ型」、「理想都市」、別ブログの「ノエル」4の記事参照(「都市計画の世界史」)。あと、対比として、別ブログの「アルチュセール」の記事参照(「ル・コルビュジエの凄いところは多少、強引であったとはいえ、建築(論)と都市(計画)論を「総合」したということです」)。ところで、「十九世紀の罠-2」追記2にちょっと書いた、広井良典著「コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来」(2009年)に、この本(「都市計画の世界史」)が何度も引用されている。ヨーロッパにおける都市の「城壁」が「市民」という概念(や性格)を形成したとか、マックス・ウェーバーの都市論(1964年)がどうとか、まっ、とりあえず、最後まで読んでみる。旧ブログの「誤算-1」の記事参照(「城壁」)

*10:エベネザー・ハワード著「明日の田園都市」(1902年)。前の「H&Mモデル」の記事でモリスは「近代デザインの祖」と書いたけど、ハワードは「近代都市計画の祖」と呼ばれている。旧ブログの「Natural World-2」の記事参照。ついでに、前に別ブログの「ノエル」4の記事で、「田園都市建設が事実上、失敗した(中略)理由はとても明快です」と書いたけど、アルフレッド・ウェーバーマックス・ウェーバーの弟)の「工業立地論」は1909年なので、時代背景を考慮する必要はあるとも言える。一応、この「工業立地論」は、栗田治著「都市モデル読本」(2004年)で、詳しく解説されている(「ヴェーバー問題」)。「日食」の記事参照。あと、工場については、「メモ-3」の記事の動画(40秒〜1分40秒)も参照

*11:悲しき熱帯II」、「ボロロ族の集落」、「ボロロ族の集落-2」、「ボロロ族の装飾」、「メモ-2」の記事参照

*12:旧ブログの「美しい景観-4」の記事参照、いや、参照しなくていいw

*13:メモ-2」の記事参照(「われわれはそれを、ルソーのお陰で知ってるのだから。」、レヴィ=ストロース

*14:メモ-2」の記事参照(「実験室における専門家の仕方にならって…」、ル・コルビュジエ

H&Mモデル

(前回の「モダニズム」の続き)

…えっと、モリス(ウィリアム・モリス、近代デザインの祖)*1について書く前に、先週の日本経済新聞(2010年1月5日)の連載「危機後 産業潮流(3)」、「北欧発 新価格 割安感・デザイン両立」の記事のメモ。

(前略)H&Mは世界35ヵ国に約2000店を展開し、08年度(08年11月期)の売上高は1040億スウェーデンクローナ(1兆3500億円)。店舗は主に大都会の一等地に賃借で設けてステータスを高め、毎日のように新商品を導入するモデルで急成長した。この10年間で店舗数と売上高をそれぞれ3〜4倍に増やした。

先月の「闘うレヴィ=ストロース」の記事で、「(前略)「H&M」(や「ユニクロ」)のような「低価格」で商品を売る店が都心に進出しているという現象は、少し新しいかも知れない(少なくとも中心地理論では説明できない。ひょっとしたら、採算性を度外視して、ブランドの「広告」的効果を狙っているのかも知れない←超適当に書いてますw)」と、まさに超適当に書いたのだけど(w)、これ(上記)はその答えかも知れないなぁーと思いました。

まっ、要するに、そういう「(ビジネス)モデル」があるということです(w)。この「モデル」について、もうちょっと丁寧に考えてみると、今世紀の新しい都市像を垣間見ることができるかも知れないなぁーと思ったけれど、そのうち考える(おいおい)。

(追記。少なくとも、中心地理論では説明できないような新しい「モデル」が都心に浸入し始めている、とは言える。更に、この新しい「モデル」によって、都心のステータスが、商品の「価格」(または「希少性」)よりも、道行く顧客と商品の「同時性」のみがある場所へ脱構築*2されている、とも言える*3

以上です。

ついでに、同記事には「イケア*4についても書かれている。引き続きメモ。

 イケアは37ヵ国に約300店を持ち、09年度(09年8月期)の売上高は215億ユーロ(2兆8000億円)。創業者イングヴァル・カンプラード氏が作った財団が親会社で、株式公開の意思はない。
「不動産市況に収益を左右されたくない」と店舗は原則、郊外に取得した自社の土地の上に開く。今期は「いくぶん成長のペースが落ちる」と控えめだ。店内には発売から30年、同じデザインのソファも並ぶ。時間をかけてブランドを浸透させてきた。

この「都心」立地(H&M)と「郊外」立地(イケア)の対比は面白い。

前に別ブログの「アウトレットモール」の記事では、アウトレットモールの「超郊外」立地について書いたのだけど、あ、そういえば、先月、お台場にアウトレットモールがオープンしたらしい。まっ、いいか。ひょっとしたら、商圏的に、お台場は「都心」ではないのかも知れない(←超適当に書いてます、再びw)。*5

 急成長のH&Mと堅実なイケア。好対照の両者が世界を席巻する理由は、低価格を実現するグローバル調達・物流にある。人口が1000万人に満たないスウェーデンで生まれた両社は、早くから世界で戦うコストを意識してきた。
「まず値札をデザインせよ」。イケアは創業者の言葉を守り、モノ作りを価格設定から始める。
 アジア、欧州など55ヵ国、1220の工場から商品を調達する。平たく梱包する「フラットパック」化で輸送費を切りつめる。分解された家具が40フィートコンテナにすき間なく詰められ、そのまま店に運ばれる。
 H&Mも世界700社の取引先から最適な企業に商品を発注する。全輸送の90%以上が船舶や鉄道などでコストのかさむ航空機*6はあまり使わない。アジア生産の商品はほぼ完全に海上輸送だ。精密に計画された大量生産と低コスト配送のシステムで旬を逃さずに店へ届ける。

「低価格」ではあっても、「原価」は驚くほど低い(「利益率」が高い)のかも知れない。そして、

 両社とも商品の生命線となるデザインの多くは内製だ。独自に育てた専属デザイナーが新しいモードを生み出す。イケアは外部の契約者を含め100〜120人のデザイナーを使っているが、核となるのは20人弱の社内デザイナー。H&Mも約100人の社内デザイナーを抱えている。
 周到に計算されデザインされた低価格は、縮む消費に慌て、利益なき値下げに走る日本のデフレとは一線を画す。北欧で生まれた価格とデザインを両立させる事業モデルには、デフレの克服につながるヒントがあふれている。

以上です。

というわけで、今日書くはずの「モリスの建築論」は、また今度にするw、というか、ウィリアム・モリスについて書こうとすると、「マルクス主義」を避けては通れないので、正直言って、気が重い(泣)。*7

とりあえず、土肥誠著「30分でわかるマルクスの資本論」(2010年)を、コンビニで買って読んでみたけど、またタイトルに騙された(泣)。*8

うーん、「資本論(まんがで読破)」(2008年)なら、僕でも理解できるだろうか。*9

(追記)

国産木材利用促す法案 提出へ」(←リンク切れ。コチラへ)
NHKニュース、2010年1月6日)
林業の活性化を図るため、農林水産省は、公立の学校や地方自治体の庁舎などの建築にあたり国産の木材の利用を促す新たな法案を通常国会に提出する方針を固めました。
政府は、温室効果ガスの吸収や、新たな雇用の創出につなげるため、林業の活性化を掲げていますが、その実現には木材の利用をどう拡大するかが課題になっています。このため農林水産省は、公立の学校や病院、地方自治体の庁舎などを建てる際に国産の木材の利用を促す新たな法案を、今月招集される予定の通常国会に提出する方針を固めました。3階建て以下の低い建物を対象に具体的な基準作りを進めており、公共の建築物で率先して国産の木材を使うことで民間の利用拡大を促し、10年後の木材の自給率を今の2倍にあたる50%以上にするという政府目標の実現につなげるねらいです。(後略)

これは良い法案です。「3階建て以下の低い建物」だけではなく「木造5階建て」も含まれるようになれば、更に良い。*10

木造高層ビル」は、環境先進国のトレンドです、キリッ。詳しくは、旧ブログの「表記-9」の記事参照。あと、この動画(「木造6階建て」の耐震実験、2009年7月)も参照。それと、戦後、人工的に大量植林された山林を、複合林に(人工的に)戻す必要もあるだろう。*11

(追記2)

インドのタタ、超低価格車「ナノ」の米国発売を検討も
(ロイター、2010年1月5日)
インドの自動車大手タタ・モーターズのラタン・タタ会長は5日、超低価格車「ナノ」を3年以内に米国で発売することを検討する可能性があると述べた。(後略)*12

(追記3)

後藤和子著「文化と都市の公共政策――創造的産業と新しい都市政策の構想」(2005年)*13第7章「福祉国家から創造的都市へ――スウェーデンフィンランドを中心として」より。

(前略)スウェーデンには、自然の素材(木や金属や織物)を使った手仕事の伝統がある。

(中略)スウェーデンが、工業化により近代国家への道を歩み始めるのは、 19世紀後半*14である。銅と鉄、木材等豊富な自然資源が近代化を支える原動力となる(中略)。1930年代には、古典的なスウェーデン福祉国家モデルが芸術の分野を包含するようになる。

(中略)このように、1930年代に労働者や市民の運動が反映され、すべての人々が平等にその生活のなかで文化を享受するという、生活と芸術や文化との結合が早くから図られているのが、スウェーデン文化政策の特徴である。これは、1946年にJ.M.ケインズの提案により創設されたイギリスの芸術評議会が、ハイカルチャー中心の芸術支援をすすめ、地方の文化や市民への教育を軽視したことと対照的である。

(中略)1930年代になると、(中略)工芸と産業デザインが融合し、ガラス製造などの分野で成功を収めていく。また、アーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けて形成された「高価なものを買える人々ばかりではなく、万人に良いデザインを与える義務がある」という考え方を基盤として、1930年代には(中略)機械生産にも工芸の要素を取り入れるようになっていくのである。

 イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動が当初、モダニズムと対立的であったのとは対照的である。スウェーデンでは、工業化が遅かったからというだけでなく、19世紀後半の労働者や市民の運動とデザイン・工芸の結びつきが強かったために、(中略)産業と芸術の融合がうまくいったという側面もあるのではないだろうか。(中略)それが今日のデザイン産業の国際競争力につながっているのである。*15

(「モリスの建築論」へ続く)

*1:旧ブログの「はちみつ石の景色」の記事参照

*2:別ブログの「雑記6」注釈6の記事参照

*3:新建築2009年12月号」(「安い、ということ」)、別ブログの「イオンレイクタウン-3」(「新しい都市・東京の未知なる可能性」)の記事参照。あと、「不況しか知らない若者世代「おゆとり様」が日本の消費を変える」(ダイヤモンド・オンライン、2009年8月18日)も参照。引用すると、若者世代は「ネット通販ではなく店舗での直買いを好み、納得のいく商品をじっくり選ぶ。少ない予算で自分らしいスタイルでいたいと、注目するのは、やはりユニクロやZARAといったファストファッション・ブランド。他人と比較することなく、個性や自分らしさを重視する傾向が強いのだ。」

*4:別ブログの「イケア」の記事参照

*5:ウィキペディアここ参照。引用すると、「アウトレットモールの多くは、高速道路や幹線道路沿いの郊外、観光地に立地している。(中略)都心部の正規品流通店舗との競合を避け、通常店舗の分布が少ない地域にアウトレット店を置くことで広域から一定の集客を得るためと、そもそもの土地代の安さによって安値販売を成立させるためである。」

*6:レッセフェールの教訓」注釈2の記事参照

*7:別ブログの「アルチュセール」の記事参照(「左翼」)

*8:別ブログの「イオンレイクタウン-2」の記事参照(「ヽ(`Д´)ノ」)

*9:別ブログの「マンハッタンのゆくえ(後)」の記事参照(「『経済学』は苦手」)。 ちなみに、別ブログの「雑記5」に書いた「マンガ ル・コルビュジエの生涯 立志編」(2009年)は結局、買って読んだ。後悔はしてない。。

*10:世界最高層70mの木造ビル計画 オーストリア、20階建て」(共同通信、2009年10月6日)も参照

*11:“森林大国ニッポン”にチャンスあり! 地方銀行が、新たな「森」と「ビジネス」を育てる」(ダイヤモンド・オンライン、2009年2月18日)も参照

*12:闘うレヴィ=ストロース」、「新建築2009年12月号」、別ブログの「タタ・モーターズ」の記事参照

*13:別ブログの「フロリダ」、「雑記6」注釈11の記事参照

*14:十九世紀の罠」、「十九世紀の罠-2」の記事参照

*15:住宅では、スウェーデンの「スウェーデンハウス」とフィンランドの「ホンカ」が日本でも人気がある。とくに、団塊リタイア世代に人気がある(一応、「低価格」ではない。むしろ「高価格」)。旧ブログの「平面図-1」、「平面図-2」の記事参照

モダニズム

(前回の「十九世紀の罠-2」(「モダニズム」では、過去の全ての「様式」が否定の対象となる)の続き)

ル・コルビュジエ著「建築をめざして」(1923年)、「建築か革命か」より。

もはや「何々様式」はわれわれには存在意義がなくなり、時代の一つの様式がつくり出されたと推測できる。ここに革命があったのだ。

ル・コルビュジエ著「OEuvre complete 1910-1929」(1929年)より。*1

私は(中略)その時代を規定している諸要素を分析する。私は単にその外面的な現象形態だけではなく、根底にある意味、構造的な思想を明らかにする――そこにこそ、建築の本質的意味があるはずだ。さまざまな様式や軽薄な流行は幻影、仮装にすぎず、それらは私にはなんの関係もない。

コーリン・ロウ著「イタリア十六世紀の建築」、「エピローグ」より。

あらゆる「流派」を粉砕しましょう (…)「ヴィニョーラ派」も粉砕しようではありませんか。
――ル・コルビュジエヨハネスバーグの近代建築家たちへの手紙、1936年9月23日

ワルター・グロピウスヴァザーリを読んでいたが、別の結論を引き出した。グロピウスは建築史にたいし無関心だったように書かれることが多いが、その著作の中でゴシックを高く評価している。そしてゴシック大聖堂を中世「民衆」の集団的特徴と認めているが、(中略)芸術家の自由という概念をグロピウスは明らかに信頼していなかったのだ。

(中略)ル・コルビュジエのような建築家にとって、(中略)ヴィニョーラが特別な批判の対象に選ばれたのは、はかり知れぬ成功をおさめたヴィニョーラの建築論『建築の五つのオーダー』(1562)が、ル・コルビュジエが「新建築の五原則」で成し遂げようとしていたすべてを如実に示していたからである。

高山正實著「ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて」より。

私は、若い時にアーヘンで見た古い建物のことを覚えている。それらは簡素な普通の建物だった。どの時代にも属さず1000年もそこにあるのだ。そしていまだに感動を呼び起こす。変えるものは何もない。あらゆる重要なスタイルが過ぎ去っていった。しかしそれらの建物はまだそこにあった。(中略)それらは中世の建物であった。特別な性格があるわけでなく、ただしっかりと建てられた建物だった。*2
――ミース・ファン・デル・ローエ

1910年に海の向こうの新世界アメリ*3からやってきた。ヴァスムート社のライト*4の作品集出版と同時にベルリンで開催されたライトの作品展である。

(中略)ルネッサンス以来の伝統的なコンセプトでは建築は、生活するための空間ではなく、その空間を包む「箱」を意味した*5。建築家たちはいかにして美しい箱をつくるかで技を競った。(中略)この箱を打ち壊して内部の空間を解放したのがライトである(←動画)。空間は自由に流れるようになった。大切なのは箱ではなく空間なのだとライトはいった*6。発想のコペルニクス的転換である。近代建築の始まりであった。

ディヴィッド・スペース著「ミース・ファン・デル・ローエ」より。

工業化と新素材が一九世紀にもたらした急激な変化は社会の随所に現われたが、この新しい可能性を理解した者は極めて少なく、(中略)僅かな例外を除いて一九世紀の建築家は様式リバイバルの果てしない循環にとりつかれ、結局は建築の精神を枯渇させ意味を奪取してその表現価値を不毛に導いた。*7

本質的に建築行為を美術理論家の管理から開放し、建築の専らあるべき姿に戻すのが我々の仕事である。
――ミース・ファン・デル・ローエ、1923年

身を起こして立ち去ろうとした際、近代的室内に一際目立つイオニア式柱等の素晴らしい彫刻が目についたので何のためかとたずねた。ミースは暫くそれを注視した後、「古い建築家はこういうものを真似するが、我々は味わうんですよ。」と答えた。
――ジョージ・ネルソン、1935年

(まっ、とりあえず、閃いた順にざっと並べてみた。当時の雰囲気が伝われれば、それでいい)

「モリスの建築論」に続く。
H&Mモデル」に続く。

(P.S.)

明けましておめでとうございます。本年も新しい「都市理論」の完成を目指します。ところで、「理想都市」のモデルには、大きく分けて、「理念」型と「問題解決」型の2通りのアプローチがあると言われているのだけど、僕は「問題解決」という目先の便益だけには甘んじず、「理念」に基づく(「理念」から演繹される)実践的な「都市理論」の完成を目指します*8。一年の計は元旦にあり。

m(_ _)m

*1:ノルベルト・フーゼ著「ル・コルビュジエ」からの孫引き(日本語訳)

*2:別ブログの「別世界性」の記事参照

*3:旧ブログの「New World」の記事参照(動画

*4:旧ブログの「Prairie House」、「Integral Project-2」(動画)の記事参照(フランク・ロイド・ライト)。「メモ-2」追記も参照

*5:ヴィラ・コルナーロ」の記事参照(「優雅な舞台装置」)

*6:十九世紀の罠」注釈1の記事参照(「モダニズム建築は、(中略)『空間』そのものを作ることへとシフトしようとする運動」)。あと、旧ブログの「ベビーズム-3」も参照(アインシュタインの空間)。ちなみに、ミースは「アインシュタインボーア、そして特にシュレジンガーの愛読者であった。」(同書)

*7:十九世紀の罠-2」の記事参照(「19世紀の後半は諸様式のリヴァイヴァル(復興)の時代)」)

*8:闘うレヴィ=ストロース」追記の記事参照(「新しい旗は」)。あと、念のため、僕は理念「から」演繹するのであり、理念「を」演繹することは、とっくの昔に諦めている。だから僕は本を読んでいる(僕にとって読書は次善の策である)。ちなみに、読書について、ミースは「私はベルリンに蔵書を3000冊残してきた。後でそのうち300冊を送ってもらったのだが、整理してみると、私がとっておきたいと思った本は30冊しかなかった」と述べている。そして、その30冊は何かの問いに、こう答えている。「それを君たちに教えるわけにはいかない。君たちは自分で自分の30冊を探さなければいけない。そうしなければ勉強する意味がない。」(高山正實著「ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて」)

十九世紀の罠-2

(前回の「十九世紀の罠」の続き)

西洋建築様式史」(共著、1995年)、第11章「19世紀の建築」より。*1

 18世紀後半に開始された新古典主義は、(中略)ローマの偉大さを強調しようとする傾向、(中略)ギリシアの「高貴な単純」こそ至上とする傾向など、さまざまな内容を含んでいた。考古学上の新発見と調査研究は、古代の建築にさまざまなスタイルがあることを教え、多数の出版物が建築家に古代の知識を提供した。新古典主義は、バロックロココに代わる新しい美学をもつ国際的な運動となっていった。
 他方、自国の伝統のなかに建築のモデルを見出そうとするロマン(中世)主義が台頭する。これはゴシック様式の復興としてイギリスが先陣を切り、19世紀に盛期を迎える。同時に、18世紀の新古典主義の中にはエジプト、中国、インドなどの非西洋の建築様式に手を染める者もいた。
 19世紀は18世紀に現れていた様式の多元化が一気に進んでいく時代であり、建築家は今や幾通りもの様式を手中にすることになった。しかし、最も有力な様式と見なされたのは、依然として新古典主義であり、19世紀前期に全盛期を迎えた。19世紀の中頃から新古典主義の力は衰え、ネオ・ルネサンスとネオ・バロック様式がそれに代わり、世紀の後半は諸様式のリヴァイヴァル(復興)の時代となった。復興様式はさらにそれぞれの国の伝統と混ざり合い、ひとつの建物に複数の様式が折衷されることもあったが、建築の格付けのための重要な表現媒体として生き続けた。
 ところで、19世紀初頭、文学者で政治家でもあったシャトーブリアン(1768-1848)は、『キリスト教精髄』(1802)を著し、そのなかでゴシック様式は国民的様式であり、キリスト教にはゴシック様式が古典様式よりも相応しいと述べた。これは、様式がある特定の建築に結び付き得ることを示唆するものである。

大雑把にまとめると、19世紀前半は「新古典主義」で、後半は「諸様式のリヴァイヴァル(復興)の時代」(今風に言うと、「出版物」によって、「様式」のデータベース化が完了した時代、かな)*2。そして、その後の「モダニズム」では、過去の全ての「様式」(データベース)が否定の対象となる。

モダニズム」に続く(たぶんw)。

(追記)

意外なつながりシリーズPart 2*3

渡辺公三著「闘うレヴィ=ストロース」(2009年)*4第一章「学生活動家レヴィ=ストロース」より。*5

(前略)おそらくこの「プロレタリア文学」についての評論が、レヴィ=ストロースの署名で論争的な文章が誌上に登場した最初であろう。資本主義社会のただなかでは「プロレタリア文学」は成立しえず、「革命的文学」のみが成立しうる。「いまだに生まれていない文明の美的表現であると仮説されたプロレタリア芸術をどのように定義できるというのか」と反問したうえで、「社会革命は、芸術の革命と同様、革命そのものである。/未来の革命者たちは、その〔革命の〕不十分さによってのみ、それを「プロレタリア」革命と判断するであろう」という挑発的な言葉で結ばれたこの評論は(中略)批判を呼び、(中略)フランスにおけるプロレタリア芸術をめぐる論争の発火点になったとされる。

 一九二八年一一月号では、「警告!」と題した文章で、開設されたばかりの社会党本部の建物の保守的な趣味を批判し、革命的なデザインをしめすことで革命的意識をもった支持層を獲得すべきだという主張を展開している。文頭には「ブルジョワ社会の基礎にはブルジョワ文明がある」というド・マンの『マルクス主義を超えて』の一節がおかれている。評論は、その年の夏にスイスで開催された近代建築国際会議*6で、当時は新進の建築家ル・コルビュジエ(一八八七―一九六五)らが、建築における前衛たることを表明した決議文の引用*7とセットで組まれている。

レヴィ=ストロースル・コルビュジエの意外なつながり、の巻でした。まっ、意外というか、(当時は)二人ともパリに居たので、当然かも知れないな。

同書(P.45)より。

(前略)(レヴィ=ストロースは)当時の政治的な態度をめぐって、『遠近の回想』では次のように総括している。

そこ(中略)に寄稿した文章で私が言いたかったのは、あらゆるかたちの前衛はそれぞれの分野で革命的であるべきだという命題を擁護しよう、ということでした。
たとえば私たちが政治において前衛であるように、というわけです。そのことによって、当時左翼の活動家に多かったのですが、キュビスムシュルレアリスムなどはブルジョワ的退廃の表現であると考える人たちと、私は一線を画したのです。

それぞれの分野の独自性を認めつつ(これはある種の文化相対主義ともいえよう)、それぞれの分野で前衛であることを求める(これはある種、前衛であることへの絶対的要請である)というレヴィ=ストロースの思考のあり方が、ここでは巧みに要約されている。

うーん。そういえば、最近、「前衛」という言葉をあまり見なくなった気がする。気のせいかな。海外の建築サイトをネットサーフィンしていると、船酔いに似た眩暈に襲われる(w)けど、今の建築では、デンマークの「BIG」(Bjarke Ingels Group)が割と「前衛」だろうか。「BIG」の建築は、CAD的な自由自在な操作空間に、リアルと交差しているような諸形式を、スクリプト言語的に(リテラルに)さくさくと入力して建築形態を確定している、というだけに見えるような荒っぽさが、とても魅力的(動画動画動画←他にもたくさんある)です。「BIG」の建築観は、ウィキペディアここ参照(「BIG」は、「前衛」(avant-garde)ではなく「第三の道」(pragmatic utopian architecture)を掲げている)。

以上。

(追記2)

前に「メモ-3」の記事で、「(前略)コミュニティをつくるとかの議論は、全く本質的ではない」と書いたけど、広井良典著「コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来」(2009年)を買った。でも、読まないかも知れない(おいw)。でも、コミュニティの未来と宗教施設(神社やお寺や教会)の章は、面白いかも知れないな。うーん、初詣(w)

では、良い年末をお過ごし下さいませ。m(_ _)m

*1:日食」の記事参照(同書、第10章「18世紀の建築」)。「モダン・ライフ」、旧ブログの「表記-4」、「表記-5」、「表記-6」も参照(19世紀のパリ、ロンドン)

*2:十九世紀の罠」の記事参照(19世紀)

*3:Part 1は、「レッセフェールの教訓」の記事の追記

*4:闘うレヴィ=ストロース」、「「計画」と「規制」」の記事参照(「闘うレヴィ=ストロース」)

*5:悲しき熱帯II」、「ボロロ族の集落」、「ボロロ族の集落-2」、「ボロロ族の装飾」、「環境のイメージ」、「機能から構造へ-2」、「メモ」、「メモ-2」の記事参照(レヴィ=ストロース

*6:機能から構造へ」、「ユルバニスム」、「メモ-3」注釈2の記事参照(※CIAM近代建築国際会議

*7:この「決議文」はおそらく1928年「ラ・サラ宣言」。「第1回の創設会議には計8ヵ国から25名の建築家が参加し、(中略)建築や都市に対する合理主義的・機能主義的な視点やエコール・デ・ボザール(国立美術学校)流のアカデミズムに対する批判的な姿勢を打ち出した『ラ・サラ宣言』を採択した(中略)。CIAMの活動を通じて、絶えず議論の中心に位置していたのは、20世紀における住環境と、それらを含めて都市をどのように形成していくかという問題であった。(中略)ラ・サラの第1回総会では(中略)『これら獲得したものは、近代建築が存在するという事実から生じている。この建築は、すべてを転倒させ、すべての領域で新しい均衡状態を作り出す(中略)』ことを説いたのである。(中略)その成果は会議のたびごとにまとめられ、出版物として刊行されたので、会議に参加した者以外にも広く知られるようになっていった。」(暮沢剛巳著「ル・コルビュジエ 近代建築を広報した男」)

十九世紀の罠

(前回の「レッセフェールの教訓」の続き)

中央公論2010年1月号、「対談 「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田 彰)より、メモ。

  • 十九世紀の罠に落ちた世界

蓮實重彦:(前略)十九世紀が二十世紀の世紀末をじわりじわりと侵食していることは、手応えでわかっていましたが、二十一世紀に入って、これほど堂々と十九世紀が世界を覆うとは思わなかった。
(中略)「十九世紀」と言っても、フランス革命ではなく、一八四八年の二月革命の頃から始まる十九世紀が問題なのです。この「近代」は、われわれがよく言っているように、ポストモダンなしにはありえない近代です。そして、その近代がじわりじわりと日本を侵食し、ついに二十一世紀のいま、世界は完全に十九世紀の罠に落ちたという感じがしている。(中略)二十世紀末のポストモダンの議論など、その退屈な反復にすぎない。
浅田彰:(中略)十九世紀初めの頃は、規範がなくなったから何でも自由にできるという楽観が強かった。それに対し、一八四八年の二月革命から五一年のルイ・ナポレオンのクー・デタに至るプロセスを経て、規範がなくて何でもできるが故に何をやっても意味がない、何もできないということになり、ある意味でポストモダンなその地点から出発するのが真正のモダニズムであるということになった。マルクスその人も、そういう場所から出発したはずです。
(中略)したがって何もできない状況が、もう一回、裸の現実としてせり上がってきた。よく「ゼロ年代」と言われているような事象は、その日本における現れでしょうね。

社会学者の稲葉振一郎は、「社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか」(2009年)の第7講「モダニズムの精神」(と第11講「危機についての学問」)で、「モダニズムとは近代の自意識である」と説明し、それ以前の、「近代」の理想の実現可能性が疑われなかった「素直な近代」と明確に区別している。*1

  • 資本主義者がいなくなった

浅田:(中略)資本主義がなぜこうしてサヴァイヴしえたかと言えば、社会主義なりファシズムなりと対立しつつ学習したからです。ケインズにしても、社会主義に勝つためには政府介入とセーフティ・ネットが必要であると言い、それを実践した。日本でも、マルクスを体系化した宇野経済学を学び、資本主義の矛盾を熟知した官僚や政治家、あるいは経営者たちが、そういうことをやってきた。資本主義というのはたえず危機をはらんだシステムであり、蓮實さんの言われる本当の資本家というのは、敵と闘いながら学ぶべきは学んで自己修正し危機管理にあたる人なんですね。
蓮實:(中略)いまの日本には「エコ」というかけ声が何でもありの一形態として席巻していますが、持続可能性という概念が資本主義と矛盾しないと強調する経営者も政治家もあまり見かけない。

  • 民主主義はいい加減なもの

浅田:十分に合理的かつ民主的な選挙方式は存在しないというのが、フランス大革命時代のコンドルセ以来の問題で、市場の一般均衡分析を完成したケネス・アローが、他方でそのような選挙方式の不可能性を原理的に証明していることは、あらためて強調しておくべきでしょう。
 そもそも、多数決は、社会を乱暴に均質化しランダムな数の戯れに委ねる悪しき形式主義であるというのが、典型的にはヘーゲルの批判で、それがマルクスに受け継がれる。
(中略)クロード・ルフォールのような反全体主義の政治哲学者は、社会が数に還元され、空位の中心がランダムな数の戯れによって一時的に満たされる、このいい加減さが民主主義の本質であり、全体主義批判の裏面としてそれをあえて肯定しようとした。(中略)これは二十世紀の一つの教訓だったとは思うんです。
 しかし、そこに居直ってしまっていいのか。しかも、アメリカのポールスター(世論調査員)がやるような綿密な世論調査が一般化し、ネット社会になってその精度が上がると、ランダムな数の戯れだったはずのものをマーケティング的・世論操作的にコントロールする、つまりデタラメなものを真面目にプレイするということになってくる。チャーチルルフォールの言っていたのとは違う意味で、それが、二十一世紀の選挙でさまざまな病的様相をもたらしているように思いますね。

以上。

というわけで、宮台真司福山哲郎著「民主主義が一度もなかった国・日本」(2009年)を読み始める。先週は、読書が進まないドタバタ。

十九世紀の罠-2」に続くー。

*1:補足しておく。「素直な近代」とは、「一八世紀の『啓蒙』の時代の思想家たちに分かりやすく表れているような理念(中略)が広く理想として受け入れられ、目指された時代」を指す。しかし、「理想が少しずつ実現していくにつれ、社会は透明で見通しやすくなるどころか、かえって不透明になっていった。(中略)個人の外側にあって個人を制限する『社会的なるもの』のイメージに人々はとりつかれ始めた」。そして、後の「モダニズム」とは、「マルクス主義以上に徹底して、こうした『素直な近代』の楽観主義――さまざまな『個人主義』『自由主義』の間の予定調和への漠然とした期待――を批判する意識だった」(同書、P.205-206)。あと、建築のモダニズムについては、著者は「(前略)今日的な高層ビルの理念の父ともいうべき有名なル=コルビュジエの仕事などにはっきりと体現されていますが、それはもはやある場所に――大地の上、空間の中に――家や建物を建てるというより、空間そのものを組織することを志向しています。(中略)モダニズム建築は、ものを作るのではなく、ものがその中に存在する『空間』そのものを作ることへとシフトしようとする運動なのです」と述べている(P.131-132)。ル・コルビュジエの「ドミノ・システム」(1914年)や「300万人のための現代都市」(1922年)はまさにその象徴である。「ギリシャ型とローマ型」、別ブログの「別世界性」(リートフェルト)、「アルチュセール」、旧ブログの「ベビーズム-6」、「スケーリング-1」、「Natural World-2」、「World of Tomorrowの補足」、「Integral Project-2」の記事参照