ボロロ族の集落-2

(「ボロロ族の集落」の続き)

クロード・レヴィ=ストロース著「悲しき熱帯II」第6部「ボロロ族」より。

 ケジャラの環状の村は、ヴェルメーリョ河の左岸に接している。この河は、ほぼ東西の方向に流れている。理論的には、村の中心を通って河に平行に引いた線は住民を二つの群れ――北のチェラ族(中略)と南のテュガレ族――に分ける。(中略)この区分は、二つの理由で根本的な重要性をもつものである。まず、或る個人は常にその母と同じ半族に属する。さらにまた、或る個人は他の半族の成員としか結婚することができない。もし私の母がチェラなら私もまたチェラで、私の妻はテュガレということになろう。

 女は自分の生まれた家に住み、それを相続する。従って、女が結婚すると、男の住民は空き地を横切り、円の中心を通って二つの半族を隔てているはずの線を越えて反対側に行って住むことになる。男が自分の生家を離れてしまうことに対して、「男の家」が緩和作用をもっている。なぜなら、中央に占めるその位置は、両方の半族の領域に跨(またが)っているからである。

(中略)半族は、単に結婚だけでなく、社会生活の他の面も規制している。一方の半族の或る成員が何かの権利を得、あるいは義務を負うことになった場合、それはもう一方の半族の利益のためか、もしくは助力によってなのである。例えば、チェラ族の或る男の葬儀はテュガレ族の人々によって、その逆も、相身(あいみ)互いに行われる。この村の二つの半族は、それゆえ、互いに相手の伴侶となっているのであり、あらゆる社会的宗教的行為は、一方の半族に割り当てられている役割を補うような役割を演ずる、相手方の協力を前提にしているのである。



(上図の赤線=半族の境界線、青線=川上と川下の氏族の境界線)


(中略)次に、これとは別の一面に目を移そう。中心を通って村を二分する第一の線と垂直に交わる第二の線は、南北方向の軸で半族を再分割する。この軸の東で生まれた村民はすべて「川上」の者と呼ばれ、西で生まれた村民は「川下」の者と呼ばれる。従って、二つの半族の代りに四つの分族があることになる。

(中略)その上、住民は氏族にも分かれている。これは、互いに共通の祖先から女性を通して血を分け合っているという意識で結ばれた家族の集合である。共通の祖先とは、神話的な性質のもので時には忘れさられてさえいる。(中略)かつて氏族はチェラ側に四つ、テュガレ側に四つで、八つあったらしい。(中略)いずれにせよ、或る氏族の成員が、結婚した男性を除いて、皆同じ小屋か隣接した小屋に住んでいるというのは、依然確かなことだ。従って各氏族は、家の環の上にめいめいの位置を占めていることになる。或る氏族はチェラまたはテュガレであり、川上か川下であり、あるいはさらに、或る一氏族の住居の中を一方の側でも他の側と同じように突っ切って通っている川上・川下の二分によって、さらに小さい二つの群れに再分されもする。

 これでも、まだ物事に複雑さが足りないとでも言わぬばかりに、各々の氏族は、やはり女系を辿って継承される小さな群れを包含している。このようにして各々の氏族の中には、「赤い」家族と、それ以外の「黒い」家族とがある。さらに、かつて各氏族は、上、中、下の三つの階層に分かれていたらしい。


(上図の赤=上、黄=中、青=下)

「中略」ばかりで意味が伝わりにくいかも知れないけど、要するに、とても「複雑」であるということ。そして、その複雑さの記憶を留めておく(ボロロ族は無文字社会である)にあたって、「環状」の形態(円形)がとても有効なのである、ということです。

つまり、結論を先に書くと、

 ボロロ族にとって(中略)は、一人の人間は一つの個体ではなく一つの人格なのである。人間は社会学的な宇宙の部分を成している。集落は、物理的宇宙と隣り合って、全き無窮のうちに存在しており、物理的宇宙そのものも、他の霊魂をもった存在――天体や気象現象――から成っている。このことは、実際に、或る村が(耕地の消耗のために)同じ場所に三十年以上留まることは滅多にないという、かりそめの性格をもっているにもかかわらず言えるのである。従って村を成しているのは、土地でも小屋でもなく、すでに記述したような或る一つの構造であり、その構造をすべての村が再現するのである。

(続く) →「ボロロ族の装飾